
二条城
二条城(にじょうじょう)は、京都市街の中にある江戸時代の平城
北が竹屋町通、南が押小路通、東が堀川通、西が西ノ京式部町に接し、その周囲は幅が約10~20mの堀に囲まれている
かつて平安京の大内裏の南東端と、その南の禁園跡とにまたがる場所にあり
敷地は、東西約500m、南北約400mのほぼ矩形になっている
総面積 約27.5万m2:東京ドーム46,755m2 約6倍
建物面積 約8,000m2
1939年(皇紀2599)昭和14年11月30日
「旧二条離宮(二条城)」の名で、二条城の外堀を囲む道路も含めて二条城全域が国の史跡に指定される
二の丸御殿(6棟)は、国宝
22棟の建造物と二の丸御殿にある計954点の障壁画が重要文化財
二の丸御殿庭園が特別名勝に指定されている
二条城:目次
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基本情報
Map 情報
【経緯】
徳川家康が征夷大将軍の宣下を受けるのに際して、上洛時の宿所として二条城の築城を決める
- 1601年(皇紀2261)慶長6年5月
町家の立ち退きを開始
12月には、西国諸大名に築城費用および労務の割り当てが行われる
隣接する神泉苑の泉を利用して内堀が造営され、神泉苑の苑域も築城の敷地にかかり縮小される - 1602年(皇紀2262)慶長7年5月
造営総奉行に、京都所司代 板倉勝重、作事(建築)の大工棟梁に、中井正清が
縄張(基本設計)は、築城の名手 藤堂高虎が任じられ、御殿や天守の造営に着工
翌 慶長8年3月に落成する - 1603年(皇紀2263)慶長8年2月
徳川家康は、伏見城において征夷大将軍補任の宣旨を受け、3月には、室町幕府以来の慣例に基づく「拝賀の礼」を挙行するために早々に入城し、御所への行列に出発した
それに続き、二条城において、重臣や公家衆を招いて将軍就任の祝賀の儀を行った
この将軍就任の手順は、2年後の1605年(皇紀2265)慶長10年に第2代将軍 徳川秀忠と、 - 1623年(皇紀2283)元和9年に第3代将軍 徳川家光が踏襲するが、
第4代将軍 徳川家綱以降は行われなくなった
以降、二条城は、徳川幕府の儀典の場として利用される - 1611年(皇紀2271)慶長16年
二条城の御殿(現在の二の丸御殿)において、徳川家康と豊臣秀頼の会見が行われ、
このとき徳川家康は、豊臣秀頼の成長ぶりに驚き、徳川家の天下が覆されるかもしれないとの危機感を抱き、豊臣家を滅ぼすことを決意したともいわれている - 1614年(皇紀2274)慶長19年
大坂冬の陣が勃発
二条城は、大御所(徳川家康)の本営となり、伏見城から出撃する将軍 徳川秀忠の軍勢に続き、徳川家康は二条城から大坂へ駒を進める - 1615年(皇紀2275)慶長20年
夏の陣においては、徳川方についていた古田織部の家臣が、二条城に火をかけ混乱の中で
徳川家康を暗殺しようとした陰謀が明らかとなり、古田織部は切腹、家財没収となる - 1616年(皇紀2276)元和2年
徳川家康が没し、 - 1619年(皇紀2279)元和5年
徳川秀忠は、娘和子(東福門院)が後水尾天皇の女御としての入内に備え、二条城の改修を行う
このときの縄張は、徳川秀忠自らが藤堂高虎と共に行ったとされる - 1620年(皇紀2280)元和6年6月18日
徳川和子は、二条城で儀典を執り行い、行列を作り御所へ入る - 1623年(皇紀2283)元和9年
徳川家光が将軍になり、徳川秀忠が大御所となり - 1624年(皇紀2284)寛永元年から
後水尾天皇の行幸を迎えるため、大改築が始まった
作事奉行には、小堀遠州、五味豊直が任じられ、尾張徳川家義信を始め、親藩大名、譜代大名の19家が動員される
城域が西側に拡大され、現在の二の丸の西北部にあった初期の望桜型五層の天守閣が淀城に移され、現在の本丸の西南部に、層塔型五層の天守閣が新造される
徳川秀忠の本丸御殿が建立され、二の丸御殿(国宝)では、徳川家光のための大改造が行われ、現在に至る - 1625年(皇紀2285)寛永2年
二条城に将軍不在の間の管理と警衛のために、二条城代と二条在番が設置される - 1626年(皇紀2286)寛永3年
天守閣、本丸、二の丸が完成
同年9月6日から5日間に渡って
後水尾天皇の二条城の行幸が行われ
その間、舞楽、能楽の鑑賞、乗馬、蹴鞠、和歌の会が催された - 1634年(皇紀2294)寛永11年7月
徳川秀忠の死後、徳川家光が30万7千の大軍勢を引きつれ上洛し、二条城に入城する
これを最後に、二条城に将軍が入城することはなくなり、幕末までの約230年間、二条城は歴史の表舞台から姿を消す
後水尾天皇の行幸のために新たに建てられた行幸御殿は、上皇となった後水尾院の御所に移築され、その他多くの建物が解体撤去される - 1660年(皇紀2320)万治3年には、暴風雨
寛文年間(1661~1673年)には、二度の大地震 - 1701年(皇紀2361)元禄14年には、雷雨による破損
- 1750年(皇紀2410)寛延3年には、落雷により天守が炎上、焼失し、以降再建されることはなかった
- 1788年(皇紀2448)天明8年
大火の飛び火で、本丸御殿、隅櫓(すみやぐら)などが焼失する
破損部分に関しては修理が行われたが、焼失した建物については再築されなかった - 1699年(皇紀2359)元禄12年
将軍の上洛に備えた警護のために置かれていた二条城代(じょうだい)が廃止され、
交代制の二条在番(ざいばん)が置かれる - 1862年(皇紀2522)文久2年8月
二条在番が廃止され、常勤制の二条定番が設置される
朝廷の監視および折衝を担当する京都所司代は、二条城の北の邸宅で政務を執っていたため、二条城は幕府の政庁としては全く使用されていなかった
翌年の将軍 徳川家茂の上洛を迎えるため、荒れ果てていた二条城の改修が行われ
二の丸御殿が全面的に修復され、本丸には仮御殿が建てられる
幕末維新 - 1863年(皇紀2523)文久3年
第14代将軍 徳川家茂が、朝廷の要請に応えて、徳川家光以来の上洛をする
衰退の一途をたどっていた二条城が再び歴史の表舞台に登場することになる - 1865年(皇紀2525)慶応元年
徳川家茂が、再度上洛し二条城に入るが、すぐに第二次長州征伐の指揮を執るため大坂城へ移る
しかし、徳川家茂は、病に倒れ、翌慶応2年夏に死去する - 1866年(皇紀2526)慶応2年
二条城における幕閣によって次の将軍は一橋慶喜と決定されるが、
一橋慶喜は将軍就任を拒絶し、幕府関係者や朝廷から度重なる説得が行われる
同年12月
徳川慶喜が、二条城において第15代将軍拝命の宣下を受ける - 1867年(皇紀2527)慶応3年9月
徳川慶喜が、宿所を若狭小浜藩邸から二条城に移す
同年10月
二条城の二の丸御殿大広間にて、大政奉還、将軍職返上が行われる
同年12月
朝廷より辞官納地命令が二条城に伝達される
このとき二条城には、旗本を中心とする徳川家直属の兵約5000、会津藩藩士約3000、桑名藩士約1500が集結しており、朝廷を操る薩摩藩をけん制していた
徳川慶喜は、軍事衝突を避けるため、二条城からこれらの兵を連れて大坂城へ移動する
二条城は、若年寄 永井尚志と水戸藩士約200名が守備のため残る
新選組も二条城守備の命を受て到着し、水戸藩士との間で小競り合いになるが、永井尚志の判断で、新選組は伏見奉行の守備にあたることになる - 1868年(皇紀2528)慶応4年正月
鳥羽・伏見の戦いが勃発する
二条城は、大坂に召還された永井尚志に代わり、水戸藩士 梅沢孫太郎が留守役となっていたが、1月5日に、朝廷(新政府)の命を受けた議定 徳川慶勝に引き渡され、太政官代が設置された
同年4月
太政官代は、宮中に移転し、二条城は、京都府庁として活用される - 1870年(皇紀2530)明治3年
事実上の東京遷都が行われたあと、二条城は、留守官の管轄下に置かれる - 1871年(皇紀2531)明治4年
二の丸御殿が、京都府庁舎となる - 1873年(皇紀2533)明治6年
陸軍省の所管に移される - 1884年(皇紀2544)明治17年
宮内省の所管となり「二条離宮」と改称される - 1885年(皇紀2545)明治18年
京都府の新庁舎が完成移転され、明治20年まで二の丸御殿の修理が行われる - 1893年(皇紀2553)明治26年から27年
京都御苑の北の今出川門脇にあった八条宮(桂宮)本邸が、本丸へ移築され、本丸御殿となる
本丸庭園が造成される - 1897年(皇紀2557)明治30年
二の丸御殿の破風金具、入側小屋、廊下廻り格天井の張付絵が新装される - 1915年(皇紀2575)大正4年
大正天皇御大典の饗宴場が、二条城二の丸御殿で行われる
それに伴い、南門や二の丸御殿の附属建物が増築された - 1939年(皇紀2599)昭和14年
二条離宮が廃止され、京都市に下賜される
「旧二条離宮(二条城)」の名称で、二条城の外堀を囲む道路も含めて二条城全域が国の史跡に指定される
第二次世界大戦後、GHQの意向で、二の丸北側にテニスコートが作られたが、 - 1965年(皇紀2625)昭和40年に庭園に変えられる
江戸時代初期の豪商 角倉了以の邸宅の庭石などが用いられて、清流園が造営される - 1994年(皇紀2654)平成6年
世界遺産(古都京都の文化財)に登録される
【二の丸御殿(国宝)】
大政奉還(たいせいほうかん)は、江戸幕府 第15代将軍 徳川慶喜が、朝廷(天皇)へ政権返上を申し出て、許可された政治事件を起こした場所
建物面積 3,300m2、部屋数 33、畳 約800畳
各部屋には、狩野探幽・狩野尚信・狩野興以による障壁画や襖絵が部屋の目的によって描かれ、絢爛豪華である
欄間の彫刻や、飾金具、長押(なげし)に打たれた花熨斗形(はなのしがた)の釘隠しなど、あざやかな金飾が施されている
廊下は、床板を踏むと音がする「うぐいす張り」になっている
「うぐいす張り」は、床板が踏まれると「目かすがい」が上下して釘がすれ合って音がするようになっている
<遠侍の間>
3部屋に分かれていて、二条城へ参上した大名の控え室
虎と豹の絵が描かれている「虎の間」とも称される
狩野派の作で、毛皮を見て想像により描かれたもの
<式台の間>
参上した大名が、老中職と対面したところ
将軍への献上品が、この部屋で取り次がれる
襖絵は、狩野探幽が25歳のときの作
<大広間 四の間>
将軍が上洛したときに武器を収めた部屋
「檜の間」と称される
襖絵は、狩野探幽の作で、枝張り11mもある老松に鷹が豪壮に描かれている
<大広間 三の間>
外様大名の控えの間
部屋の正面上の欄間に、厚さ35cmの檜の1枚板を両面から透かし彫りにした彫刻がある
部屋廻りの柱の上には、「花熨斗形(はなのしがた)の釘隠し」と称される銅の地金に金張りした金具がある
<大広間 一の間>
将軍が外様大名に対面した部屋
安土桃山時代の武家風書院造で、最も豪華に作られている
帳台構え(武者隠しの間)、違棚、床の間、附書院がある
襖絵は、狩野探幽の作
二の間の天井は、四方がまるく折上がった「折上げ格天井」になっている
一の間の天井は、中がもう一段折上がった「二重折上げ格天井」
1867年(皇紀2527)慶応3年10月
15代将軍 徳川慶喜が、諸大名を集めて大政奉還、将軍職返上が行われた部屋
<黒書院>
将軍と親藩大名、譜代大名との対面所の奥御殿
<白書院>
二の丸御殿の一番奥にある将軍の居間と寝室の棟
一の間から四の間まであり、江戸時代には「御座の間」と称されていた
内部の装飾は、他の建物と異なり、全体的に落ち着いた居間にふさわしいものとなっている
【本丸御殿(重要文化財)】
本丸は、内濠に囲まれた約18,000m2(約5,200坪)の部分
現在の建物は、
1893年(皇紀2553)明治26年~27年に
御所の北の今出川門脇にあった八条宮(桂宮)本邸の一部が移築されたもの
1847年(皇紀2507)弘化4年に建てられたもの
仁孝天皇の皇女 和宮内親王が、第14代将軍 徳川家茂に嫁がれる前に住んでいたゆかりの建物
孝明天皇の仮御所にもなる
完全な形で残っている宮御殿の遺構としては唯一の貴重な建物
玄関、御書院、台所、雁の間・御常御殿の4棟があり、それぞれが廊下でつながっている
御殿内は、狩野永岳、中島華陽、中島来章などの障壁画がある
本丸御殿の南には、洋風庭園がある
<天守閣>
創建時の天守は、徳川家光の時に行われた寛永の大改修において、淀城に移築される
「洛中洛外図屏風」には、当時の天守が城の北西部分に五重の天守として描かれている
新たに、本丸の南西隅に、前年に廃城となった伏見城の天守が移築されたる
その後、1750年(皇紀2410)寛延3年に焼失して以来、再建されることはなかった
【その他の建物】
<東大手門(重要文化財)>
堀川通に面した正門
外部との出入り口となる城門が、東西南北に1ヶ所づつある
城門の奥に、二の丸御殿を守る築地塀がある
<二の丸御殿庭園(特別名勝)>
別名「八陣の庭」
池泉回遊式庭園で、庭師 小堀遠州の代表作の一つ
池には、3つの島が浮かび、池の中央やや北よりに、もっとも大きい蓬莱島があり、その北に亀島、南に鶴島がある
亀島は亀の形に、鶴島は鶴の形に石が組まれている
蓬莱島は、亀島と共に見えるアングルからは鶴の形に、鶴島と共に見えるアングルからは亀の形に石が組まれていて、常に鶴亀の一組を表現する趣向となっている
池の北西部には、二段の滝がある
<梅林>
天守閣跡の内濠の向かい付近
紅梅、白梅、桃色梅など品種もさまざまな約130本ほどの梅がある
1本の木に紅白の花を咲かせる「源平咲分け」などもある
2月下旬~2月中旬が見頃
<桜の園>
本丸御殿の内濠の向かい付近
里桜、山桜、八重紅枝垂桜など約45種 約200本の桜が咲き誇る桜の名所