
京都観光_主要神社仏閣
修学旅行含め、京都観光では特に拝観頻度が多い神社仏閣をピックアップし、ポイントのみをまとめました
案内の参考にしてください
京都観光_主要神社仏閣:目次
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金閣寺(きんかくじ)
観光時間:30~40分
金箔を貼った3層の舎利殿「金閣(きんかく)」があることで通称が一般的で、正式名称は「鹿苑寺(ろくおんじ)」と称する
創建:足利義満(室町幕府の3代将軍)
金閣寺の起源
現在、金閣寺こと鹿苑寺がある場所には西園寺(さいおんじ)という寺院が建っていました。
西園寺は、 鎌倉 時代に藤原氏の公卿・西園寺公経(さいおんじ きみつね)が建立したもの。
しかし、鎌倉幕府が滅亡してからは荒廃。
室町時代になり、室町幕府3代目将軍の足利義満が西園寺の土地を譲り受けます。
義満は北山殿(北山第)と呼ぶ大規模な邸宅を造営しました。
北山殿は邸宅でも非常に規模が大きく、御所に並ぶほどでした。
そして、義満は北山殿で政治の執務を行うように。
義満が死去すると、遺言により北山殿は禅寺に生まれ変わります。
北山殿は現在の舎利殿以外は解体されました。
義満の法号である「鹿苑院殿」に由来して「鹿苑寺」と名乗ったのです。
拝観順_ポイント
- 鹿苑寺案内図
- 舎利殿前の池、手前から記念写真するのが綺麗に撮れます
- 陸舟の松(りくしゅうのまつ)
方丈の北側前に立つ五葉の松
足利義満遺愛の盆栽を移して帆掛けて舟の形に仕立てたものといわれる
樹齢は約600年
「陸舟の松(おかふねのまつ)」とも称される 京都三松の一つ
この「陸舟の松」は、もともと義満公の盆栽でした。
それを地面に植え替えて、舟の形に仕立てた松です。
この松の先は「西」を向いています。
義満はこの舟に乗って、西方浄土(極楽浄土)を目指したかったようです。
- 舎利殿 金閣
宝形造り(ほうぎょうづくり)柿葺(こけらぶき)の三層楼閣
銀閣(慈照寺)、飛雲閣(西本願寺)とともに「京の三閣」と称される
3層構造で、それぞれの階の様式が異なっているのが特徴。
二層と三層に、漆の上から純金の箔が張られている
屋根は椹(さわら)の薄い板を何枚も重ねた柿葺(こけらぶき)
屋根の上には中国で縁起の良い鳥といわれる鳳凰(ほうおう)が輝く - 一層:寝殿造で法水院(ほっすいいん)寝殿造
壇上中央に宝冠釈迦如来坐像、向かって左に法体の足利義満坐像を安置 - 二層:武家造の仏間風、潮音洞(ちょうおんどう)
須弥壇上に観音菩薩坐像(岩屋観音)を安置し、須弥壇周囲には四天王像が立つ。壁と床面は黒漆塗とし、天井には飛天像を描く - 三層:中国風の禅宗仏殿造で究竟頂(きっきょうちょう)
仏舎利を安置
天井や壁を含め内外ともに金箔張りで、縁と内部の床面のみ黒漆塗とする
※昭和62年:漆の塗り替え、金箔の張替え(7億4千万円) - 室町時代の代表建物
- 1950年(皇紀2610)昭和25年:徒弟 林承賢(当時21歳)に放火されて焼失
- 1955年(皇紀2615)昭和30年:再建されるが、国宝指定は取り消される
- 1987年(皇紀2647)昭和62年:漆の塗り替え、金箔の張替え(7億4千万円)、天井画と足利義満像の復元などが行われた
- 池泉回遊式庭園(国の特別史跡、特別名勝)
鳳林承章が、荒廃した金閣を復興し、池泉庭を修復した
境内約132,000㎡(約4万坪)の内、92,400㎡(約2万8千坪)が鹿苑寺庭園として特別名勝、特別史跡に指定されている 回遊式庭園
- 鏡湖池(きょうこち)
鏡湖池は、浄土世界にある七宝の池を模してつくられたといわれる
庭園の中心で約6,600㎡(約2千坪)
西から大きく出島が突き出し、池内に九山八海石(くせんはつかいせき)などの名石を配する
葦原島(あしはらじま)・鶴島・亀島など大小の島々があり、畠山石・赤松石・細川石などの奇岩名石が数多く置かれている金閣を映しだす池
金閣を池に映し出せるように池の水はあえて濁らせている(粘土質の水を作り、鯉が泳ぐことで水が濁る自然現象を用いている)
- 銀河泉(ぎんがせん)
足利義満が、お茶の水に使ったといわれる
現在も、清冽な清水が湧き出している
- 巌下水(がんかすい)
足利義満が、手洗いに用いたといわれている
- 竜門滝
高さ約2.3mの一段落
龍門の滝を鯉が登りきると龍に化するといわれる中国の故事「登竜門」にちなんで
滝壷の所に斜めに傾いた鯉魚石(りぎょせき)が置かれている
- 日本の竜
長谷川等伯による善女竜王像(安土桃山時代、七尾美術館蔵)
仏教では竜は八大竜王なども含めて仏法を守護する天竜八部衆のひとつとされ、恵みの雨をもたらす水神のような存在でもある。仏教の竜は本来インドのナーガであって、中国の竜とは形態の異なるものであるが、中国では竜と漢訳され、中国古来の竜と混同ないし同一視されるようになり、中国風の竜のイメージに変容した。日本にも飛鳥時代以降、中国文化の影響を受けた仏教の竜が伝わっている。 - 竜神
竜神は竜王、竜宮の神、竜宮様とも呼ばれ、水を司る水神として日本各地で祀られる。竜神が棲むとされる沼や淵で行われる雨乞いは全国的にみられる。漁村では海神とされ、豊漁を祈願する竜神祭が行われる。場所によっては竜宮から魚がもたらされるという言い伝えもある。一般に、日本の竜神信仰の基層には蛇神信仰があると想定されている。 - 登竜門【とうりゅうもん】
中国の《後漢書》李膺(りよう)伝に,黄河の上流に竜門という激流があり,その下に多くのコイが集まり,ほとんどは急流を登れないが,もし登ったら竜になる,と伝える。転じて立身出世のための関門を意味する。
- 安民沢(あんみんたく)
「雨賜沢」「望雲沢」とも称される池
日照りが続いても涸れないので「雨乞いの場」ともされていた
池中の小島には、「白蛇塚」という五輪の石塔がある
西園寺家の鎮守ともいわれる日本の七福神である弁財天さま。七福神の中で唯一の女性神であります。
水と豊穣の神様。弁財天は、 穀物や果実を実らせ、財をもたらしてくれるといわれています。
その弁財天の眷属(お遣い)が、白蛇様だと言われております。
蛇は家や蔵に住み着く、穀物を食べてしまうネズミを退治してくれ、財産(穀物や果実)を守ってくれることから、金運・財運の象徴とされてきました。
その中でも白蛇は、特に貴重な存在とされ神の使いとして、大切にされてきました。
白蛇は、弁財天様の化身ともいわれる
- 茶室 夕佳亭
池庭の北方にある、三畳台目の茶室
金森宗和好みの数奇屋造
夕日に映える金閣の景観がすばらしいこと、殊(コト)に佳(ヨ)いということからこの名が付けられました。
夕佳亭に使われている「南天の床柱」は、とても貴重な物で、それを探し求めるだけでも多くの費用がかかったと言われ、金閣をしのぐとも伝わっています。
右側の「三角の萩の違棚(ちがいだな)」があり、茶室中央には「古木の鴬宿梅(おうしゅくばい)」が配されていて、古今の名席として高い評価を受けています。
修学院を造営した後水尾上皇のために、池泉庭を修復した鳳林承章(ホウリンジョウショウ)が、金森宗和(茶道家)に造らせたといわれる夕佳亭の前には石造りの「貴人榻」(きじんとう)がある夕佳亭から見た舎利殿安土桃山時代から江戸時代にかけて大徳寺を本拠に京都の寺社、武家、公家諸侯と幅広く交流した金森宗和が関わった茶室である。
平成になって大修理された折古図が見つかり、宗和建築当初の原形に近い形に復元された。三畳敷の母屋に二畳敷の「鳳棲楼(ほうせいろう)」が連なっている。茶室のにじり口
にじり口とは、小間(4畳半以下の茶室)の入り口の名称です。
にじり口を茶室に取り入れたのは、千利休。千利休が生きた戦国時代は、主従関係が強い時代でしたが、茶室の中ではすべての人が平等ということを示すために入り口を低くしました。どんなに身分が高い人でも、刀を外し頭を下げなくては茶室に入ることができません。
茶室の構造HP
- 不動堂
本尊は秘仏の石不動明王
弘法大師の作といわれる節分と8月16日に開扉法要(かいひほうよう)が行われる
目にご利益
北野天満宮
観光時間:30~40分
北野天満宮(きたのてんまんぐう)は、北野にある「天神さん」「北野さん」とも称される神社
- 無実の罪で大宰府に流された、右大臣だった菅原道真の怨霊を鎮めるために建立された神社
- 祭神の菅原道真は、「和魂漢才」の精神をもって学問に励み、幼少より文才を表し、朝廷の官吏として活躍された
- 江戸時代、寺子屋が普及し、精神的拠りどころとして天満宮の御札、掛軸がお祀りされ、「学問の神様」として天神信仰が確立し「天神さん」と称され、多くの受験者らの信仰を集めている
- 北野天満宮より分霊が「天神様」として、全国各地の天満宮や天神社へ勧請(かんじょう)された
拝観順_ポイント
- 一の鳥居
今出川通りに面して建つ高さ11.4メートルの大鳥居。
木曽の花崗岩の一本柱で、大正10年10月に建立されました。
上部に掲げられた扁額は高さ2.7メートル・幅2.4メートル、重量は563キログラム。
平成26年に修復がなされ、閑院宮載仁親王御筆の「天満宮」の文字が美しくよみがえりました。
- 楼門
上部に掛けられた額には、「文道大祖 風月本主」の文言が刻まれています
北野天満宮の七不思議
- 影向松(ようごうのまつ)
表参道の大鳥居(一ノ鳥居)をくぐってすぐ右手、石の玉垣をめぐらせた一本の松
この松は、当宮の創建からこの地にあると伝わる御神木。
立冬から立春前日までに初雪が降ると天神さまが降臨され、雪見を愛でながら詩を詠まれるという伝説がある
- 筋違いの本殿
表参道から楼門をくぐり、まっすぐに境内を進むと地主神社が建っている
もともとこの地には地主神社があり、のちに菅原道真公をおまつりする社殿を建てたという歴史的な理由から、本殿は地主社の正面を避けて建てられました。
- 星欠けの三光門
日の出日の入り月(2匹のうさぎの間に三日月)
社殿(本殿)の境内に入る中門は、多くの彫刻が施されている中に、日・月・星の彫刻がある
星は天上に輝く北極星のことで、実際には刻まれていないという説。
理由は、かつて帝がお住いの大極殿から北野を望まれると、ちょうどこの門の上に北極星が輝いたと伝えられていることから、北極星をいただく伝説の門といわれています。天空と一つになって平安京を守護した場所が、この北野の地なのです
- 大黒天の燈籠
小石を乗せるときは、そっと触れてください三光門の東南にある燈籠。この大黒様の口に小石をのせて落ちなければ、その小石を財布に入れて祈るとお金に困らないといわれています。石燈籠は江戸時代に「大黒屋」を中心とする質屋さんの組合によって奉献され、このことからお金の運だめしが始まりましたが、「落ちない」ことから受験生にも知られるようになりました。
- 唯一の立牛
本殿の上の真ん中境内各所には、神牛の像が置かれているが、唯一立った牛の姿の神牛がいる
大宰府でご生涯を閉じられた際、道真公の御遺骸をお運びする途中で車を引く牛が座り込んで動かなくなって、やむなく付近の安楽寺に埋葬したという故事に由来しています。この伝説から神牛は臥牛(伏した牛)の姿であらわされていますが、一体だけなぜか立った姿の神牛が拝殿の欄間(らんま)に刻まれています。
- 裏の社
本殿の背面に、祀られている「御后三柱(ごこうのみはしら)」という御神座
道真公の御神座と背中合わせの形で北向きにおまつりされているのは道真公のご先祖様の天穂日命、おじい様の菅原清公卿、お父様の菅原是善卿の三柱の神さまです。
- 天狗山
境内の乾方位(西北の角)にある小山(絵馬の後ろにある小山)
室町時代に描かれた『社頭古絵図』(北野参拝曼荼羅)には、ユーモラスな烏天狗が描かれており、大昔、この辺りには天狗が出没したのかもしれないと想像をかきたてられる場所です
- 宝物殿
宝物殿には、数多くの宝物が奉納され、絵巻物の中では特に優れた作品「北野天神縁起絵巻 承久本」が、貴重な歴史財産として国宝に指定
ほかには、古文書、書画、刀剣、蒔絵や金工、茶道具といった美術的にも価値の高い工芸品を多数所蔵<北野天満宮と宝刀>
北野天満宮には、現在約100振の刀剣が宝刀として納められています
所蔵される刀剣は、実際に戦いに使われ鎮魂の役割を当宮に期待されて奉納されたものから、もともと御神宝として奉納するため鍛えられたものまでさまざまです
<太刀鬼切丸(髭切)>
「鬼切安綱」(おにきりやすつな:別名[髭切]、[鬼切丸])は、源氏の重宝として伝わる名刀です
鬼切丸の下をくぐれば「おこり」(マラリア)にかからないといって、民衆は冥加(みょうが)金を出して我も我もと争って鬼切丸の箱の下をくぐることを例(ためし)としたとの逸話が残っています。
鬼切丸は、鬼切伝説に加えいつのころからかこのような厄除けの意味を持つ宝刀となっていきました。
一説には、最上家の宝刀鬼切丸と知らずに入手した持ち主は、夜な夜な現れる「最上に帰ろう」と叫ぶ刀の夢に恐れをなし、崇敬する北野天満宮への奉納を決めたといいます。
平安京の天門に位置し、菅公の怨霊を鎮めた御霊信仰・厄除けの社としても有名であった北野天満宮に御神宝として大切に納められ、以後鬼切丸は鎮まり、宝刀として現代へと伝わっています。
北野天満宮HPより抜粋
鬼の腕を斬った「鬼切安綱」の伝説
渡辺綱と「一条戻り橋」の鬼
ある晩、源頼光が配下の渡辺綱に「一条大宮」(平安京の東大宮大路のこと)へ行くよう仕事を依頼。夜道は鬼が出るかも知れないからと、源頼光は渡辺綱に源氏に伝わる髭切の太刀を持たせます
渡辺綱は依頼を無事に済ませ、帰りに一条通りの堀川にある「一条戻り橋」(現在の京都市上京区堀川に架けられている橋)を通ります。その橋の真ん中で、ひとりの美しい女性に「家まで送って欲しい」と声をかけられ、夜更けに女性のひとり歩きは危険だと家まで送ることにしました。
しかし、送る途中に女性は恐ろしい鬼へと姿を変え、渡辺綱の髻(もとどり:頭上で束ねた髪)を掴み上空へと連れ去ってしまいます。「北野天満宮」(京都市上京区)の上空に差し掛かったときに、渡辺綱は佩いていた髭切の太刀で鬼の腕を斬り落し、逃げることに成功。
鬼は斬られた腕もそのままに、住処にしている愛宕山に逃げ帰ってしまいます。残ったのは白い毛が隙間なく生い茂った、毛むくじゃらの腕だけでした。
刀剣ワールドHPより編集抜粋
【牛】
- <神使>
北野天満宮において、牛は神使(祭神の使者)とされ、多くの牛の像が置かれている
菅原道真の生まれが丑年であり、亡くなられたのも丑の月の丑の日とされる
大宰府へ左遷されるときには、牛車で下ったといわれ、刺客から菅原道真を守ったともいわれる
菅原道真が亡くなり、遺骸を運んでいた途中、安楽寺(現在の太宰府天満宮の地)の門前で牛が座り込んで動かなくなったため、やむなくその安楽寺に埋葬されたといわれる
- <なで牛>
境内に多くの牛の像が置かれている
牛の像の頭をなでると頭がよくなるといわれ、特に受験生に信仰されている
自分の体の悪い部分と、牛のその同じ部分とを交互になでると良くなるともいわれている
伏見稲荷大社
観光時間:30~40分
伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ)は、全国約4万社の稲荷神を祀る稲荷神社の総本宮
- お稲荷さんは、農業の神であり、五穀豊穰・商売繁盛・交通安全などのご利益がある
- 平安京の五条より南が氏子圏となり、祇園社と二分していた
- 東山三十六峰最南端の稲荷山西北にあり、稲荷山には信者から寄進された約1万基の朱の鳥居が林立し「千本鳥居」と称される
- 摂社・末社も多く、山中の神蹟を巡拝する約4kmの「お山巡り」ができる
- 祭神:宇迦之御魂神(うかの みたまの おおかみ)
※宇迦=食べ物という意味で、食べ物全てを司る神で
稲荷とは、稲成り(いねなり)が変化して「イナリ」となる説も
ほとんどの日本人は、稲作など多くの農業に関わり、豊かな実りの五穀豊穰は、人々の心の大切な拠りどころでした
配祀:佐田彦大神(さたひこのおおかみ)・大宮能売大神(おおみやのめのおおかみ)・ 田中大神(たなかのおおかみ)・四大神(しのおおかみ) - 創建:秦伊呂具(はたのいろぐ)
- 通称:お稲荷さん(おいなりさん)
- ご利益:五穀豊穰・商売繁盛・交通安全
キツネは、神様のお使い
銀閣寺
八坂神社~清水寺の坂道をぶらり
八坂神社
古くから疫病除けの神として広く信仰を集め、御霊会(現在の祇園祭)を行ったといわれる
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長楽寺「洛中随一絶景の霊地」「長楽寺坂」を上がる
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高台寺「ねねの道」から続く「台所坂」を上がる
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「一年坂」は約80mの坂道、「二年坂」16段の石段
※一年坂と二年坂は、近代以降に三年坂に準えてつけられた名称
「三年坂」は46段の石段
かつて「産寧坂」と呼ばれており、女性が安産祈願のためにこの坂を登った?
安産の御利益がある「子安の塔」が、明治時代以前には清水寺の一番手前にあったことから、「産寧坂」と呼ばれた
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「二年坂」 竹久夢二が愛した甘味処「かさぎ屋」
大正時代の画家・詩人の竹久夢二が、この店に通っており、直筆の色紙がある
夢二が愛した甘味で、おしるこをシャーベット状にした名物「特製志る古セーキ」がオススメ
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清水寺
東山の音羽山の崖っぷちに立つ「清水の舞台」で著名な寺院
境内には、約1000本の桜が咲き誇る桜の名所
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ノブちゃん(私)が京都の拝観、学びの神社仏閣一覧表
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