
北野天満宮
北野天満宮(きたのてんまんぐう)は、北野にある「天神さん」「北野さん」とも称される神社
無実の罪で大宰府に流された、右大臣だった菅原道真の怨霊を鎮めるために建立された神社
祭神の菅原道真は、「和魂漢才」の精神をもって学問に励み、幼少より文才を表し、朝廷の官吏として活躍されたことにちなみ、江戸時代、寺子屋が普及し、精神的拠りどころとして天満宮の御札、掛軸がお祀りされ、「学問の神様」として天神信仰が確立し「天神さん」と称され、多くの受験者らの信仰を集めている
北野天満宮より分霊が「天神様」として、全国各地の天満宮や天神社へ勧請(かんじょう)された
北野天満宮
北野天満宮:目次
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基本情報
所在地:京都市上京区御前今小路上馬喰町
祭神:菅原道真
相殿:中将殿(ちゅうしょうどの)(菅原道真の息子)、吉祥女(きっしょうじょ)(菅原道真の夫人)
社格:明神二十二社下八社、官幣中社、別表神社
通称:天神さん
ご利益:学問の神様
菅原道真
菅原道真についての詳細は画像をクリック
和魂漢才(わこんかんさい)
Map 情報
北野天満宮 写真集
北野天満宮境内図
(昔)
北野天満宮境内図(現在)
道真公のご遷座以前から、北野は天のエネルギーが働く聖地
かつて帝がおわした大極殿は今の京都御所より西にあり、北野の地は都の守護をつかさどる四方(北東、北西、南東、南西)の北西、「乾」の地として大変重要な場所とされ、天地すべての神々「天神地祇」をおまつりした地主社が建てられました。
この神社に向けて帝が大極殿から祈りを捧げられるとき、北野の上空には北極星が輝き、日・月・星の運行が天皇・国家・国民の平和と安寧にかかわるとする「三辰信仰」と結びついて、北野は「天のエネルギーが満ちる聖地」として篤く信仰されるようになりました。そして道真公がおまつりされると霊験はさらに増し、北野天満宮は天空をつかさどる「天神」の社となって「天神信仰」発祥の地と呼ばれるようになったのです。
北野天満宮HPより抜粋
【経緯】
平安時代初期
「続日本後紀(しょくにほんこうき)」によると
- 836年(皇紀1496)承和3年2月1日
「遣唐使のために天神地祇を、北野に祀る」と記されており、現在の摂社 地主神社が祀られる - 903年(皇紀1563)延喜3年2月25日
&deco(#C7243A){菅原道真が、藤原時平の讒言により無実の罪で配流された大宰府において無念のうちに死去
その後、京都では落雷などの天災が相次ぎ、菅原道真の怨霊との噂が広まる};
平安時代中期
- 942年(皇紀1602)天慶5年
右京七条の多治比文子(たじひのあやこ)が、「北野馬場に祠を建てよ」という菅原道真の託宣を受ける
しかし、庶民だった多治比文子には果たせず、自宅の庭に小さな祠を建てて祀る
947年(皇紀1607)天暦元年
近江国比良宮の神職 神良種(みわよしたね)の息子 太郎丸にも同じような託宣がある
神託の通りに、北野馬場に、一夜にして松が数千本生えるという奇跡が起きたといわれ、
神良種と多治比文子は、北野朝日寺(現在の東向観音寺)の最鎮に協力を求め神殿を建立する
6月9日
菅原道真の御霊が、遷座される - 959年(皇紀1619)天徳3年
藤原師輔(ふじわらのもろすけ)により社殿が寄進される - 993年(皇紀1653)正暦4年
菅原道真に、正一位・右大臣・太政大臣が追贈される - 987年(皇紀1647)永延元年
一条天皇の勅命により、菅原道真を祀る勅祭「北野祭」が行われ、「北野天満宮」の勅号を賜る - 1004年(皇紀1664)寛弘元年
一条天皇の行幸が行われ、代々皇室の崇敬を受ける
室町時代
菅原道真は、「学問・文芸の神」とされ、社殿には、文人墨客が集まり連歌の中心地となった
- 1587年(皇紀2247)天正15年10月1日
豊臣秀吉によって、北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ)が催される - 1603年(皇紀2263)慶長8年
出雲阿国が、社前で初めて歌舞伎「かぶき踊り」を披露し、「歌舞伎発祥の地」とも称される - 1607年(皇紀2267)慶長12年
平安時代に創始された社殿を、豊臣秀吉の遺命により、片桐且元が奉行となり再興される
江戸時代中期
貞享・元禄年間(1684年~1704年)
北野天満宮境内で、露の五郎兵衛(つゆのごろべえ)が、辻ばなしを口演していたのが落語の発祥となる
【祭神】
菅原道真は、幼少の頃から天才といわれ、「和魂漢才」の精神をもって大学者、能書家、詩人、政治家として名声を得た
中将殿(ちゅうしょうどの)は、菅原道真の長男
吉祥女(きっしょうじょ)は、菅原道真の夫人
【神徳】
<農耕の神>
雷を司り、農作物に影響を与える雨を降らす天神さまとして信仰される
秋には、ずいき祭が行われる
<至誠の神>
「海ならずたたへる水の底までも清き心は月ぞてらさむ」が詠まれたように、清く明き誠の心を生涯貫いたといわれる
大宰府でも、天皇から賜った御衣を毎日着衣していたともいわれる
<冤罪を晴らす神>
4月20日の「明祭」では、冤罪が晴れたことを祝される
<学問・和歌・連歌の神>
菅原道真は、5歳で和歌を詠み11歳で漢詩を作り、幼少の頃から天才といわれ、「和魂漢才」の精神をもって大学者、能書家、詩人、政治家として名声を得た<ことによる
<渡唐天神>
東福寺の開山 円爾弁円が宋から帰朝し、博多の崇福寺の住職をしていたときに、
菅原道真の神霊が現れ禅を問われた
円爾弁円が、「私が入宋して師と仰いだ仏鑑に参禅するように」と答えると、菅原道真は、後日再び現れ、
「このたび宋に飛び一日にして禅の奥義を修得した」と告げられたという
その時の菅原道真が、唐衣をまとい手に一輪の梅の花を持たれていたため「渡唐天神」と称されるようになる
これにより、室町時代には、禅僧の間で、文学神としての信仰が広まる
<芸能の神>
豊臣秀吉が北野大茶湯を催し、現在でも毎年、献茶祭が行われている
出雲阿国が初めて歌舞伎踊を演じたといわれ、北野天満宮境内で舞楽などの催しが多く行われてきている
江戸時代中期には、
北野天満宮境内で、露の五郎兵衛(つゆのごろべえ)が、辻ばなしを口演していたといわれ、落語発祥の地ともされる
<厄除の神>
2月25日の梅花祭には、男女の大厄を祓うために、白梅42本・紅梅33本の小枝を挿し玄米を入れた筒状の紙立(こうだて)がお供えされる
【境内】
<本殿(国宝)と石の間>、<拝殿(国宝)と楽の間>
1607年(皇紀2267)慶長12年
豊臣秀吉の遺命により、豊臣秀頼が片桐且元を奉行として再建したもの
いずれも権現造、南向き
本殿と拝殿を石の間で結び、左右に楽の間がある
総面積約500坪の雄大な桧皮葺屋根は、絢爛豪華な桃山文化の代表的な遺構
古来、神社祭祀は庭上で行われており、祭典を行う社殿は、神社建築史上画期的なものだったといわれる
本殿に向かって一番右端、奥の蛙股に、豊臣秀吉が武運長久を願って3つのかぼちゃが彫り込まれている
<中門(重要文化財)>
太陽、月、星の彫刻があり「三光門(さんこうもん)」と称される
1607年(皇紀2267)慶長12年の建立
扁額「天満宮」は、後西天皇の宸筆
<絵馬所>
楼門をくぐって、左手(西側)にある
算額などの多数の絵馬が奉納されている
1607年(皇紀2267)慶長12年の建立
<納札所>
境内の南西、絵馬所の奥にある
古札をお納めするお社
<絵馬掛所>
境内の南西、納札所の奥にある
多くの願い事が書かれた絵馬が奉納されている
<神楽殿>
狂言や日本舞踊、毎月25日には神楽舞が奉納される
1607年(皇紀2267)慶長12年の建立
<校倉>
1607年(皇紀2267)慶長12年の建立
<一ノ鳥居>
大鳥居
<楼門>
文道の大祖風月の本主の額が掲げられている
<東門(重要文化財)>
切妻造、銅葺の四脚門
1607年(皇紀2267)慶長12年の建立
<北門>
門前には西陣名技碑がある
<明月舎>
北門から入って左手、境内の東北にある
豊臣秀吉が催した北野大茶場を記念して毎月1日と15日に献茶会が催される
<宝物殿>
70振りの日本刀が納められている
北野天満宮に納める意味は、役目を終えた刀剣を鎮める(魂を鎮める)という北野天満宮は「邪気を祓う聖地」である
<茶室 松向軒>
北野大茶会のとき、細川三斎が茶の水を汲んだといわれている井戸がある
<御土居(国の史跡)>
1591年(皇紀2251)天正19年
豊臣秀吉により、京都の周囲の全長5里26町(約23km)に建造された「京廻ノ堤(きょうまわりのつつみ)」と称される土塁
土塁の高さは、約3.6mから5.4mあり、奥行きは約18mから20数mもあり、
軍事的な城壁と、東側では鴨川の氾濫から守る役割があったといわれる
<梅苑>
1966年(皇紀2626)昭和41年の開設
2月上旬〜3月中旬、京都随一の梅の名所
面積約5000坪、約50種類の色もさまざまな2,000本以上の梅が見られる
12月末頃からは、「冬至梅」「寒紅梅」「照水梅」など開花時期の最も早い梅が、咲き始め 紅梅、白梅、一重、八重等の順に咲き始める
2月上旬には、梅苑が一般公開される
祭神の菅原道真が、「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花 主なしとて春を忘るな」と、ことのほか梅を愛したことから設けたといわれる
<太閤井戸>
表参道の左手、楼門の手前にある
豊臣秀吉が催した「北野大茶会」ゆかりの井戸
<月下氷人石(げっかひょうじんせき)>
松向軒の庭に立つ
案内板的に利用されたもので、正面に「奇縁冰人石」、右には「たつぬる方」、左に「ゆしふる方」と彫られている
京都市内に現存する3石中(誓願寺と八坂神社、北野天満宮)の一つ
<手向山楓樹>
<北野天満宮御旅所>
西ノ京御輿ケ岡町
ずいき祭では、3基の鳳輦(ほうれん)とずいき神輿が駐輦する
【摂社・末社】
摂社・末社とは⇒摂社・末社
<境内末社 伴氏神社>
大鳥居(一ノ鳥居)から楼門までの表参道の左手に建つ
伴氏(菅原道真の母親)が祀られている
京都三珍鳥居の一つがある
<末社 宗像社(むなかたしゃ)>
楼門をくぐって左手、境内の西の絵馬所の横に建つ
祭神:宗像三女神[田心媛神(たごのひめのかみ)、湍津姫神(たぎつひめのかみ)、市杵島姫神]
神徳:交通・海上運輸安全
祭神の宗像三女神は、福岡県の玄海灘に臨む陸地(現在の宗像郡玄海町)とその沖合いにある二つの島にご鎮座になられた。昔、この社殿の西にあった池の水底に鎮座されていたものをこの場所に遷したものといわれる
<大杉社>
境内の西の宗像社の後ろに鳥居がある御神木
室町時代に作成された「社頭古絵図(しゃとうこえず)」に樹齢数百年ほどの二又の杉の巨木が描かれており、これらから、樹齢1,000年以上と推定される
神仏習合時代には、「聖歓喜天(じょうかんぎてん)」の宿る諸願成就の神木とされていた
後に、落雷によって二又の幹が倒れ、根幹のみが残る
<末社 猿田彦社(さるたひこしゃ)>
楼門をくぐって左手、境内の西の絵馬掛所の横に立つ小さな社
祭神:猿田彦大神
神徳:交通安全
相殿:大宮売神(おおみやめのかみ)、神徳:芸能・舞踊上達
猿田彦大神は、天照大御神の命で瓊瓊杵尊が天孫降臨するときに、先頭に立って道案内をした神であり、交通安全の神として崇敬されてきた
身長2mをこえる巨体と長い鼻を持つといわれ「天狗さま」として親しまれている
大宮売神は、天鈿女命の別名
天岩屋戸に隠れた天照大御神を、華麗な踊りでなぐさめた女神で、芸能上達の守護神として崇敬される
愛嬌のある顔立ちの「おかめ」の顔は、大宮売神をモデルにしたものといわれる
<末社 稲荷神社>
境内の西の猿田彦社の横に建つ
祭神:倉穂魂神(うがのみたまのかみ)、猿田彦大神、大宮女命(おおみやめのみこと)
神徳:五穀豊穣・商売繁盛・火難除け
例祭日:2月初午の日
祭神は、「稲生りの神」と称され、五穀(米・麦・粟・豆・稗)豊穣をつかさどり、商売繁盛の守護神でもある
かつて付近で大火があったとき、この神社の手前で火の手が止まったという伝説により「火除け稲荷」とも称される
<末社 一之保神社(いちのほじんじゃ)>
境内の西の稲荷神社の横に建つ
祭神:菅原大神(菅原道真)
神徳:学徳成就
この社は、西の京(中京区南西部)に建てられていた小さな社「安楽寺天満宮」に祀られていた菅原道真が大宰府に残された手作りの木像を、明治になり遷されたもの
「安楽寺」は、菅原道真の墓所となった寺院で、大宰府天満宮の前身とされる
<末社 奇御魂神社(くしみたまじんじゃ)>
境内の西の一之保神社の横に建つ
祭神:菅原道真の奇御魂
神徳:文芸・歌道上達の神
「奇御魂」とは、不思議な出来事や奇跡を呼び起こす特殊な力を持った神霊のこと
鎌倉時代
菅原道真の神霊が、東福寺の開山 円爾弁円の前に現れ
「私は、このたび宋に飛び一日にして禅の奥義を修得した」と告げられたという
その時、菅原道真は唐衣をまとい手に一輪の梅の花を持たれていたため、以来このお姿を「渡唐天神」と称されるようになる
かつて、北野天満宮の境内で盛んに行われていた法楽連歌(天神様をなぐさめるため人々が集い和歌を詠みあう会)は、この「渡唐天神」の肖像の前で行われていたことで、和歌・文芸上達の守護神として崇敬されるようになったといわれる
<末社 野見宿祢神社(のみのすくねじんじゃ)>
境内の西の奇御魂神社の横に建つ
祭神:野見宿祢
神徳:武芸・スポーツ上達
野見宿祢は、菅原道真の19代前の先祖で、文武両道優れた勇士
垂仁天皇の御前試合において、最強の力士を豪語する当麻蹶速(たいまのけはや)を打ち破り相撲の祖と仰がれる
後に、野見宿祢は、朝廷に仕え、古いしきたりを改めた功績により「土部(はじ)」の姓を賜ったとされる
<末社 豊国神社(とよくにじんじゃ)>
境内の西の野見宿祢神社の横に建つ
祭神:豊臣秀吉
神徳:開運・立身出世の神
豊臣秀吉は、北野天満宮への崇敬が篤かったとされる
1587年(皇紀2247)天正15年
北野天満宮の境内において北野大茶湯を催されたり、遺命により現在の本殿(国宝)の造営をしたなど数々偉業を残した
<末社 一夜松社(いちやまつしゃ)>
境内の西の豊国神社の横に建つ
祭神:一夜千松の霊
神徳:延命長寿の神
一夜千松の霊とは、北野天満宮の創建の時に「私の魂を祀るべき地に、一夜にして千本の松を生じさせる」という
菅原道真のお告げによって、この一帯に生えた松に宿る神霊
境内に残る松の樹々は、この一夜千松の名残りとされる
<摂社 福部社(ふくべしゃ)>
中央の参道の左右に4社並ぶ手前左側の社
祭神:十三能福(そどうのうふく)
神徳:開運招福
例祭日:3月12日
祭神の十三能福は、菅原道真に使えた舎人(とねり)(牛車を引く牛の世話役)で、名前などから、
金運と開運招福を司る福の神として信仰されるようになる
<摂社 白太夫社(しらだゆうしゃ)>
中央の参道の左右に4社並ぶ手前右側の社
祭神:渡会春彦翁(わたらいはるひこのおきな)
神徳:子授けの神
例祭日:1月9日
伊勢神宮の神官 渡会春彦は、文章博士(もんじょうはくし) 菅原是善(すがわらのこれよし)に跡取りの誕生を託され、
豊受大神宮(外宮)に祈願したところ菅原道真が誕生した
それ以来、数十年にわたり守役として、菅原道真に仕え忠誠を尽くしたといわれる
渡会春彦は、若い頃より白髪で、「白太夫」と呼ばれていた
各地の天満宮にも「白太夫」として渡会春彦が祀られている
<摂社 老松社(おいまつしゃ)>
中央の参道の左右に4社並ぶ奥の右側の社
社殿の裏にも社がある
祭神:島田忠臣翁(しまだただおきのおきな)
神徳:植林・林業の神
例祭日:3月12日
島田忠臣は、菅原道真の家臣といわれ、菅原道真の夫人の父親ともいわれる
菅原道真が配流先の大宰府で、無実を天の神々に訴えるために天拝山(てんばいざん)に登ったときに、
島田忠臣は、菅原道真の笏(しゃく)を持ってお供したといわれる
島田忠臣は、菅原道真から松の種を預かり、この地に撒くように託された
北野馬場に、一夜にして松が数千本生えたといわれる
<摂社 火之御子社(ひのみこしゃ)>
中央の参道の左右に4社並ぶ奥の左側の社
祭神:火雷神(からいしん)
神徳:雷除け(かみなりよけ)・五穀豊穣(ごこくほうじょう)の神
例祭日:6月1日
北野天満宮の創建以前の元慶年間(877年〜885年)頃
太政大臣 藤原基経が、五穀豊穣を祈願するために、北野雷公(きたのらいこう)を祀ったといわれる
6月1日の例祭では、午前4時から古式にのっとった火鑚式(ひきりしき)が行われ、
その斎火(いみび)で「雷除守札」に祈願が込められて授与される
<御后三柱(ごこうのみはしら)>
社殿の裏にある
祭神:天穂日命、菅原清公(すがわらのきよきみ)、菅原是善(すがわらのこれよし)
神徳:学徳成就
天穂日命は、菅原道真の祖先の神とされる
菅原清公は、菅原道真の祖父で、若くして遣唐使に任命され空海らと入唐し、朝廷儀式の改革を行い、
菅原氏として初めて公卿(くぎょう)に列せられる
菅原是善は、菅原道真の父親で、太政官となり、学問所「文章院(もんじょういん)」を創設した
<摂社 地主神社(じぬしじんじゃ)>
社殿の裏(北)に建つ
祭神:天神地祇(てんじんちぎ)
相殿:敦実親王(あつみしんのう)・斎世親王(ときよしんのう)・源英明朝臣(みなものとのひであきらあそん)
神徳:招福・交通安全・諸願成就
例祭日:4月16日
「続日本後紀(しょくにほんこうき)」によると
836年(皇紀1496)承和3年2月1日
「遣唐使のために天神地祇を、北野に祀る」と記されている
1607年(皇紀2267)慶長12年
豊臣秀吉の命による建立
天神地祇は、日本国内60数国に祀られた全ての神々のこと
相殿の祭神は、菅原道真にゆかりの深い親王
<末社 文子社(あやこしゃ)>
境内の西の北寄りに建つ
祭神:多治比文子(たじひのあやこ)
相殿:神良種(みわのよしたね)・太郎丸(たろうまる)・最鎮(さいちん)
多治比文子は、京都に住んでいた少女の巫女
神良種は、近江国(滋賀県)比良の神主で、太郎丸はその息子
最鎮は、かつて境内地にあった朝日寺の僧
この4人は、多治比文子と太郎丸が、菅原道真から「私の魂を北野の地に祀れ」という神託を受け、
力を合わせて北野天満宮を創建したとされる
<末社 神明社(しんめいしゃ)>
境内の西の北寄り、文子社の北に並んで建つ
祭神:天照大御神、豊受大御神
神徳:家内安全・家業発展
天照大御神は、伊勢神宮の皇大神宮(内宮)の最高神として崇敬されてきた女神
豊受大御神は、伊勢神宮の豊受大神宮(外宮)に祀られ、すべての食物とあらゆる産業をつかさどる神
<末社 竈社(かまどしゃ)>
北門の近くに建つ
祭神:庭津彦神(にわつひこのかみ)、庭津姫神(にわつひめのかみ)、火産霊神
神徳:台所の守り神
例祭日:6月17日
庭津彦神・庭津姫神の「庭」は家庭のことで、家庭の守護神
火産霊神は、火を司る神
祭神の三柱は、かまど・台所の守り神として古来から信仰されている
北野天満宮の御供所(ごくしょ)(神様へのお供えものを調理するところ)のかまどで祀られていたもの
社殿の床下には、古来使われていた大釜が納められている
<境内外末社 神輿岡神社(みこしがおかじんじゃ)>
西ノ京御輿ケ岡町の北野天満宮御旅所にある
祭神:大己貴命(土地の守り神)・少彦名命(医薬・病気平癒の神)・菅原大神(学徳成就の神)
【文化財】
<紙本着色 北野天神縁起(絵巻)8巻(国宝)>
菅原道真の生涯と、菅原道真死後のさまざまな災いが菅原道真の怨霊と信じられて天神信仰が生まれるまでの様子が描かれる
類本の多い天神縁起の中でも、ひときわ優れたものとして著名
<紙本墨画 六曲一双 雲龍図(重要文化財)>
縦149.4cm×横337.6cm
海北友松の雲龍図屏風の代表的作品
<紙本着色 北野天神縁起(弘安本)3巻(重要文化財)>
<紙本着色 北野天神縁起(土佐光信筆)3巻(重要文化財)>
<紙本着色 北野天神縁起(土佐光起筆)3巻(重要文化財)>
<日本書紀写本28冊(重要文化財)>
<北野曼荼羅図>
<豊太閤北野大茶湯図>
<北野大茶湯高札>
<絹本着色 舞楽図2幀(重要文化財)>
<板絵金地着色 昌俊弁慶相騎図(重要文化財)>
長谷川等伯の筆
<木造鬼神像13躯(重要文化財)>
<太刀 銘 國綱(鬼切)(重要文化財)>
1振目は、試し斬りで髭まで斬ったことから「髭切」と名付けられたのちの鬼切安綱。2振目も、同じく試し斬りで両膝を斬り落としたことから「膝丸」(ひざまる:別名[薄緑])と名付けられました。
渡辺綱は依頼を無事に済ませ、帰りに一条通りの堀川にある「一条戻り橋」の真ん中で、ひとりの美しい女性に「家まで送って欲しい」と声をかけられ、夜更けに女性のひとり歩きは危険だと家まで送ることにしました。
しかし、送る途中に女性は恐ろしい鬼へと姿を変え、渡辺綱の髻(もとどり:頭上で束ねた髪)を掴み上空へと連れ去ってしまいます。「北野天満宮」(京都市上京区)の上空に差し掛かったときに、渡辺綱は佩いていた髭切の太刀で鬼の腕を斬り落し、逃げることに成功。
鬼は斬られた腕もそのままに、住処にしている愛宕山に逃げ帰ってしまいます。残ったのは白い毛が隙間なく生い茂った、毛むくじゃらの腕だけでした。
そして、鬼の腕を斬った髭切の太刀は「鬼切丸」と改名。また北野天満宮には、「鬼から逃れることができたのは北野天満宮の神恩のおかげだ」として、渡辺綱が寄進したとする石灯籠が今も残ります。
もっと詳しく
<紫紙金泥金光明経最勝王経(重要文化財)>
後宇多天皇宸翰
【祭事】
毎月25日に縁日が開かれる
<初天神> 1月25日
<梅花祭>
2月25日
悲嘆のうちに生涯を閉じた菅原道真の霊を「なだめる」という音に通じる菜種(菜の花)を冠につけた神職により、
梅の小枝や蒸し米を神前に供えられる
上七軒の芸子・舞妓さんらによる野点なども行われる
<祈願絵馬焼納式> 4月19日
<明祭>
4月20日
菅原道真の冤罪が晴れたことが祝される
<雷除大祭>
6月1日、摂社 火之御子社
正式には「火之御子社例祭」
雷除・火難除・五穀豊穣が祈願される
<御誕辰祭(夏越天神)(夏越祓)>
6月25日
菅原道真の生誕日を祝う
夏越祓の茅の輪くぐりが行われ、無病息災が祈願される
楼門に掲げられる茅で作った直径5mの大茅の輪は、京都最大もの
本殿前にも直径約2mの茅の輪が設置される
左回り、右回り、左回りと八の字状にくぐり抜け、穢れ(けがれ)を落とす
<御手洗祭、七夕祭> 7月7日
<例大祭> 8月4日
<ずいき祭>
10日1日〜5日
秋の例祭
ずいき(里芋の茎)で大小2基の神輿の屋根が飾られる
<名月祭(芋名月)>
中秋の日
ずいきや里芋、月見だんごなどを供えて名月を観賞する
<余香祭>
10月29日
菅原道真が、重陽の宴に詠んだ詩に醍醐天皇が感銘を受けられ更衣を賜り、
大宰府に流された菅原道真が、都での栄華を思い「去年の今夜清涼に侍す 恩賜の御衣 余香を拝す」と
「重陽後一日」の詩を詠んだ故事にちなむ祭事
毎年、題が決められ、全国から献詠された和歌を神前で披露される
黄菊、白菊が飾られ、斎主、祭員、奉仕者など全員が冠に小菊をかざして奉仕される
<お茶壷奉献祭>
11月26日
&deco(#C7243A){宇治市や伏見区など府内8カ所からお茶が奉納される
};
<献茶祭(けんちゃさい)>
12月1日
1587年(皇紀2247)天正15年10月1日
豊臣秀吉が開いた「北野大茶湯」に由来するお祭
本殿での神事に続き、
11月26日の「お茶壷奉献祭」で奉納されたお茶により、京都の4家元2宗匠が輪番により、濃茶と薄茶が点てられ神前に奉納される
境内や上七軒の歌舞練場などに茶席が設けられ、絵馬所では和菓子の展覧会なども開かれる
<終い天神> 12月25日
<大祓式> 12月31日
<火之御子社鑚火祭> 12月31日
<おけら参り> 12月31日
【梅】
北野天満宮の神紋は、梅
菅原道真は、白梅をこよなく愛し、大宰府に左遷されるときに、
「東風(こち)吹かば 匂い起こせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」
と、庭の梅に詠んだといわれる
<飛梅伝説>
大宰府に左遷された菅原道真を慕って、菅原道真の御殿の梅が一夜にして大宰府まで飛んでいったといわれる故事
面積約5000坪の梅林があり、境内を含めて、約50種類、2,000本以上の梅が見られる
【牛】
<神使>
北野天満宮において、牛は神使(祭神の使者)とされ、多くの牛の像が置かれている
菅原道真の生まれが丑年であり、亡くなられたのも丑の月の丑の日とされる
大宰府へ左遷されるときには、牛車で下ったといわれ、刺客から菅原道真を守ったともいわれる
菅原道真が亡くなり、遺骸を運んでいた途中、安楽寺(現在の太宰府天満宮の地)の門前で牛が座り込んで動かなくなったため、
やむなくその安楽寺に埋葬されたといわれる
<なで牛>
境内に多くの牛の像が置かれている
牛の像の頭をなでると頭がよくなるといわれ、特に受験生に信仰されている
自分の体の悪い部分と、牛のその同じ部分とを交互になでると良くなるともいわれている
【その他】
<長五郎餅>
漉し餡(こしあん)を薄い餅皮で包んだ京菓子
北野天満宮門前の長五郎本舗で売られる
<粟餅>
北野天満宮の門前茶屋の名物菓子
<俗諺>
「弘法さんが晴れやったら天神さんは雨や」
東寺の弘法さんの市が毎月21日に行われ、北野天満宮の天神市が毎月25日に行われる
その五日間の間に、天候のサイクルにより晴雨が変わることをいい表す
<菅原道真の祟り>
菅原道真が、藤原時平の策略で無実の罪で大宰府に流され、無念のまま死去してから京では天変地異が続き
「菅原道真の祟り」と噂されるようになった
<落語の発祥の地>
江戸時代中期
貞享・元禄年間(1684年〜1704年)
北野天満宮境内で、露の五郎兵衛(つゆのごろべえ)が、辻ばなしを口演していたといわれる
<北野上七軒>
東門の門前に形成された花街
&deco(#C7243A){上京北野界わい景観整備地区に指定されている
};
<御前通>
平安京の西大宮大路にあたり、大内裏の西側にあった道幅24mの大きな通り
北野天満宮に通じていることから「御前通」と称されるようになった
以前は、治安を守る役人の居住地域であったことから「左近馬場通」「北野馬場通」とも称されていた
北野天満宮の七不思議
- 影向松(ようごうのまつ)
表参道の大鳥居(一ノ鳥居)をくぐってすぐ右手、石の玉垣をめぐらせた一本の松
この松は、当宮の創建からこの地にあると伝わる御神木。
立冬から立春前日までに初雪が降ると天神さまが降臨され、雪見を愛でながら詩を詠まれるという伝説がある
- 筋違いの本殿
表参道から楼門をくぐり、まっすぐに境内を進むと地主神社が建っている
もともとこの地には地主神社があり、のちに菅原道真公をおまつりする社殿を建てたという歴史的な理由から、本殿は地主社の正面を避けて建てられました。
- 星欠けの三光門
日の出日の入り月(2匹のうさぎの間に三日月)
社殿(本殿)の境内に入る中門は、多くの彫刻が施されている中に、日・月・星の彫刻がある
星は天上に輝く北極星のことで、実際には刻まれていないという説。
理由は、かつて帝がお住いの大極殿から北野を望まれると、ちょうどこの門の上に北極星が輝いたと伝えられていることから、北極星をいただく伝説の門といわれています。天空と一つになって平安京を守護した場所が、この北野の地なのです
- 大黒天の燈籠
小石を乗せるときは、そっと触れてください三光門の東南にある燈籠。この大黒様の口に小石をのせて落ちなければ、その小石を財布に入れて祈るとお金に困らないといわれています。石燈籠は江戸時代に「大黒屋」を中心とする質屋さんの組合によって奉献され、このことからお金の運だめしが始まりましたが、「落ちない」ことから受験生にも知られるようになりました。
- 唯一の立牛
本殿の上の真ん中境内各所には、神牛の像が置かれているが、唯一立った牛の姿の神牛がいる
大宰府でご生涯を閉じられた際、道真公の御遺骸をお運びする途中で車を引く牛が座り込んで動かなくなって、やむなく付近の安楽寺に埋葬したという故事に由来しています。この伝説から神牛は臥牛(伏した牛)の姿であらわされていますが、一体だけなぜか立った姿の神牛が拝殿の欄間(らんま)に刻まれています。
- 裏の社
本殿の背面に、祀られている「御后三柱(ごこうのみはしら)」という御神座
道真公の御神座と背中合わせの形で北向きにおまつりされているのは道真公のご先祖様の天穂日命、おじい様の菅原清公卿、お父様の菅原是善卿の三柱の神さまです。
- 天狗山
境内の乾方位(西北の角)にある小山(絵馬の後ろにある小山)
室町時代に描かれた『社頭古絵図』(北野参拝曼荼羅)には、ユーモラスな烏天狗が描かれており、大昔、この辺りには天狗が出没したのかもしれないと想像をかきたてられる場所です
- 宝物殿
宝物殿には、数多くの宝物が奉納され、絵巻物の中では特に優れた作品「北野天神縁起絵巻 承久本」が、貴重な歴史財産として国宝に指定
ほかには、古文書、書画、刀剣、蒔絵や金工、茶道具といった美術的にも価値の高い工芸品を多数所蔵<北野天満宮と宝刀>
北野天満宮には、現在約100振の刀剣が宝刀として納められています
所蔵される刀剣は、実際に戦いに使われ鎮魂の役割を当宮に期待されて奉納されたものから、もともと御神宝として奉納するため鍛えられたものまでさまざまです
<太刀鬼切丸(髭切)>
「鬼切安綱」(おにきりやすつな:別名[髭切]、[鬼切丸])は、源氏の重宝として伝わる名刀です
鬼切丸の下をくぐれば「おこり」(マラリア)にかからないといって、民衆は冥加(みょうが)金を出して我も我もと争って鬼切丸の箱の下をくぐることを例(ためし)としたとの逸話が残っています。
鬼切丸は、鬼切伝説に加えいつのころからかこのような厄除けの意味を持つ宝刀となっていきました。
一説には、最上家の宝刀鬼切丸と知らずに入手した持ち主は、夜な夜な現れる「最上に帰ろう」と叫ぶ刀の夢に恐れをなし、崇敬する北野天満宮への奉納を決めたといいます。
平安京の天門に位置し、菅公の怨霊を鎮めた御霊信仰・厄除けの社としても有名であった北野天満宮に御神宝として大切に納められ、以後鬼切丸は鎮まり、宝刀として現代へと伝わっています。
北野天満宮HPより抜粋
鬼の腕を斬った「鬼切安綱」の伝説
渡辺綱と「一条戻り橋」の鬼
ある晩、源頼光が配下の渡辺綱に「一条大宮」(平安京の東大宮大路のこと)へ行くよう仕事を依頼。夜道は鬼が出るかも知れないからと、源頼光は渡辺綱に源氏に伝わる髭切の太刀を持たせます
渡辺綱は依頼を無事に済ませ、帰りに一条通りの堀川にある「一条戻り橋」(現在の京都市上京区堀川に架けられている橋)を通ります。その橋の真ん中で、ひとりの美しい女性に「家まで送って欲しい」と声をかけられ、夜更けに女性のひとり歩きは危険だと家まで送ることにしました。
しかし、送る途中に女性は恐ろしい鬼へと姿を変え、渡辺綱の髻(もとどり:頭上で束ねた髪)を掴み上空へと連れ去ってしまいます。「北野天満宮」(京都市上京区)の上空に差し掛かったときに、渡辺綱は佩いていた髭切の太刀で鬼の腕を斬り落し、逃げることに成功。
鬼は斬られた腕もそのままに、住処にしている愛宕山に逃げ帰ってしまいます。残ったのは白い毛が隙間なく生い茂った、毛むくじゃらの腕だけでした。
刀剣ワールドHPより編集抜粋
【アクセス】
市バス 北野天満宮前
京福電車 北野白梅町駅 徒歩約5分