康尚(こうじょう)(Kousyou)

基本情報

平安時代中期の仏師
生年:不詳
没年:不詳
享年:推測54
父親:源康行(光孝源氏で日向守)
官位:従五位下
仏師職の祖
別記:康常、康浄、康成、広尚、好常

康尚(こうじょう)は、平安時代中期の仏師

 仏師として初めて土佐講師の職を得て、「仏師職の祖」と称される

 定朝の父親とも師ともいわれる
【経緯】
 生没年不詳

 970年(皇紀1630)天禄元年頃
 光孝源氏で日向守 源康行の子として生まれたといわれる

 「尊卑分脈」(南北朝時代に編纂)によれば、光孝天皇4代の孫とされている

 991年(皇紀1651)正暦2年
 祇陀林寺(ぎだりんじ)の丈六釈迦如来像を造仏

 以後、藤原道長や藤原行成など貴族に重用され、比叡山、高野山など、数多くの造仏に携わる

 998年(皇紀1658)長徳4年
 仏師として初めて土佐講師の職を得る

 1000年(皇紀1660)長保2年
 宮中寿殿の聖観音菩薩、梵天、帝釈天

 1002年(皇紀1662)長保4年
 御八講本尊

 1004年(皇紀1664)寛弘元年
 藤原行成の四天王像

 1005年(皇紀1665)寛弘2年
 藤原道長の四十賀を祝って建てられた法性寺五大堂の本尊といわれる東福寺塔頭同聚院不動明王坐像を造仏したといわれる

 同年
 宮中の十一面観音菩薩、不動明王など仏像の制作を行う

 1008年(皇紀1668)寛弘5年
 藤原道長の白檀薬師像

 1018年(皇紀1678)寛仁2年頃
 関寺の五丈弥勒仏の造仏のときには、近江講師とされる

 1020年(皇紀1680)寛仁4年
 藤原道長の依頼で、子の定朝を率いて、法成寺無量寿院の九体阿弥陀如来像を造仏

 1021年(皇紀1681)治安元年
 法成寺の造仏賞に、定朝のみが法橋に任じられており、それ以前に亡くなっていたものと推測される
【推定作品】
 康尚の造仏であるという確実な遺作は見つかっていない

 <東福寺塔頭同聚院 不動明王坐像>
 伝康尚作で、唯一の遺品とされる
 1006年(皇紀1666)寛弘3年、藤原道長の40歳を祝して建立された法成寺五大堂の中尊だったものが伝わったものといわれる
 忿怒像でありながら、全体的な雰囲気は穏やかになっている

 <広隆寺 千手観音菩薩坐像>
 像容から康尚の作と推測されている
 穏やかな面相に丸顔、肉身部の肉付けなども柔らかく、定朝様が完成する前の菩薩像としては貴重な基準となる作例である
 体内に1012年(皇紀1672)寛弘9年の銘があり、康尚の活動時期と一致している

 < 遍照寺>
 十一面観音菩薩立像(重要文化財)と不動明王坐像(重要文化財)
 創建当時に、康尚により造られたといわれる

 <浄土院 帝釈天立像(宇治市指定文化財)>
 浅く柔らかい衣紋(えもん)で、康尚の特徴ある作
【作風】
 <定朝様>
 康尚の子 定朝が確立した作風
 彫刻の和様化の先駆的な存在

 康尚は、図像を厳密に守る仏像を製作し、かつ、貴族層の美的嗜好にあわせた作風をつくり出した
 穏やかな雰囲気を好む藤原貴族に重用され、後の定朝様が生まれる土壌を作り上げた

 <仏所>
 寺院付属の工房から離れ、私立の工房を形成、定朝など多くの弟子を抱える専業的な仏像製作体制を確立し、
皇室、摂関家などの造寺発願や、高野山、比叡山などで造仏に従事し、150体以上の造仏に携わったとされる

 <寄木造>
 康尚が携わった造仏は、ほとんどが丈六像以上の大規模なものであった
 分業により大量に、かつ迅速に仏像を制作するため寄木造を創案する
 後に、定朝により確立される

 <仏師職の祖>
 仏師として初めて土佐講師の職を得て、「仏師職の祖」と称される
 講師とは、「国師」とも称され、各地の僧尼の指導に当たる僧侶の役職である
 これにより以後、仏師の社会的地位が向上していく