快慶(かいけい)(Kaikei)

基本情報

鎌倉時代に活動した仏師
生年:不詳
没年:不詳
流派:慶派
師:康慶(運慶の父親)
号:安阿弥・丹波講師・越後法橋など

快慶(かいけい)は、鎌倉時代に活動した慶派の仏師
運慶の力強い作風と比べて、細身の体型で理知的な表情、繊細で絵画的な衣文など特徴的な作風で、「安阿弥様(あんなみよう)」と称される
【経緯】
 生没年や出身は不詳

 1183年(皇紀1843)寿永2年の「運慶願経(国宝)」によると
 仏師 運慶の発願により制作された法華経(巻二から巻七が真如堂蔵、巻八は個人蔵)
 巻八の末尾の奥書に、結縁者の一人として「快慶」の名が記されている

 平安時代末期
 1180年(皇紀1840)治承4年
 運慶とともに、平重衡の兵火で焼失した東大寺、興福寺など南都の大寺院の復興造仏事業に携わる

 1194年(皇紀1854)建久5年
 東大寺中門の二天像のうち多聞天像を担当する(現存しない)

 1203年(皇紀1863)建仁3年
 僧位 法橋に叙任される

 同年
 東大寺南大門の金剛力士像(仁王像)を運慶らとともに製作する

 快慶は、東大寺大仏再興の大勧進(総責任者)であった俊乗坊重源(しゅんじょうぼうちょうげん)と関係が深く、
東大寺の僧形八幡神坐像、東大寺の俊乗堂阿弥陀如来立像など、俊乗坊重源関係の造像に多く手掛ける

 1208年(皇紀1868)承元2年~1210年(皇紀1870)承元4年の間
 法眼に叙任される

 1227年(皇紀1887)嘉禄3年
 極楽寺(城陽市)の阿弥陀如来立像(快慶の弟子 行快の作)の胎内から発見された文書に、
「嘉禄三年」の年紀と、快慶が故人であったことが記されている
【主な作品】
 快慶は、この時代においては珍しく、銘記を多く残しており、真作と判明しているものだけで40作品ほど現存している

 三尺(約1m)前後の小さめな像が多い

 <弥勒菩薩立像>
 ボストン美術館蔵(興福寺旧蔵)
 1189年(皇紀1849)文治5年の作
 現存する作品のうちもっとも古いもの
 細身の体型で理知的な表情、繊細で絵画的な衣文など、快慶の特徴的な作風が現れている
 像内には、快慶が書写した「弥勒上生経」「宝篋印陀羅尼」が納められていた
 奥書には、亡くなった両親と師の安楽祈願も記されている

 <弥勒菩薩坐像(重要文化財)>
 醍醐寺三宝院
 1192年(皇紀1852)建久3年の作
 現存する2番目の作品
 像内に朱書が納入されていた
 この作品から「巧匠アン阿弥陀仏」(「アン」は梵字)の銘記がされるようになる

 <阿弥陀如来立像(重要文化財)>
 遣迎院(京都市)
 1194年(皇紀1854)建久5年頃
 足ほぞ墨書がある

 <阿弥陀三尊立像(国宝)>
 浄土寺(兵庫県小野市)
 1195年(皇紀1855)建久6年- 1197年(皇紀1857)建久8年頃

 <阿弥陀如来坐像(重要文化財)>
 松尾寺
 頭部内面墨書がある

 <地蔵菩薩坐像>
 如意寺(宮津市)
 像内墨書がある

 <執金剛神立像(重要文化財)>
 金剛院(舞鶴市)
 足ほぞ墨書がある

 <深沙大将立像(重要文化財)>
 金剛院(舞鶴市)
 足ほぞ墨書がある

 <阿弥陀如来立像(重要文化財)>
 大行寺
 足ほぞ墨書がある

 <金剛薩った坐像(重要文化財)>
 随心院
 像内には朱書があった

 <目けん連像(重要文化財)>
 大報恩寺 千本釈迦堂
 十大弟子立像の一つ
 足ほぞ墨書がある

 <優婆離像(重要文化財)>
 大報恩寺 千本釈迦堂
 十大弟子立像の一つ
 像内墨書がある

 <僧形八幡神坐像(国宝)>
 東大寺(奈良市)
 1201年(皇紀1861)建仁元年
 像内墨書がある
 運慶も小仏師として製作していたともいわれる

 <不動明王坐像(重要文化財)>
 醍醐寺三宝院
 1203年(皇紀1863)建仁3年
 像内墨書がある

 <阿弥陀如来立像>
 百萬遍知恩寺
 銘記はないが、作風から快慶作の可能性が高いとされている

 <金剛力士立像(国宝)>
 東大寺南大門
 1203年(皇紀1863)建仁3年
 阿形像持物の金剛杵内面に墨書がある
 運慶らとの共同制作

 <阿弥陀如来像>
 知恩院大方丈仏間の本尊

 <阿弥陀三尊像>
 報恩寺客殿の本尊

 <阿弥陀如来像>
 上徳寺の本尊

 <三面千手千眼観音菩薩(重要文化財)>
 清水寺奥の院の秘仏の本尊
 大仏師 運慶・快慶ら慶派の作といわれる

 <聖観世音菩薩>
 観音寺観音堂の本尊

 <阿弥陀如来像>
 蓮光寺の本尊
 「負別阿弥陀如来(おいわけあみだにょらい)」と称される名阿弥陀の一つといわれる
 快慶が、東国の僧 覚明の依頼で作ったといわれ、快慶が、上出来の阿弥陀如来像と別れるのが辛く、覚明を追いかけ、
山科のあたりで追いつき再拝しようとしたところ、紫雲がたなびき、阿弥陀如来像が光を放ち、自ら二体に分身したといわれる
 その一体を、快慶が持ち帰り蓮光寺の本尊としたといわれる
 もう一体は、仙台市泉区に現存し、「笈分如来(おいわけにょらい)」と称されて祀られている
【その他】
 <安阿弥様(あんなみよう)>
 快慶風の様式の仏像を「安阿弥様(あんなみよう)」と称される
 1192年(皇紀1852)建久3年の醍醐寺三宝院の弥勒菩薩坐像重要文化財)から、法橋の僧位に任じられる建仁3年(1203年)まで
「巧匠アン阿弥陀仏」(「アン」は梵字)と銘記していたことが由来といわれる

 快慶は、阿弥陀如来像を多く作られており、熱心な阿弥陀信仰者であったといわれる
 <法華経 自巻第二至巻第七 6巻(国宝)>
 仏師 運慶の発願によって書写された法華経8巻のうちの一部
 真如堂の所蔵 (第一巻は亡失し、第八巻は個人により所蔵されている)
 第八巻の巻末奥書に記されている経緯によると、
 安元年間(1175年~1177年)に、運慶が、法華経書写を発願
 1183年(皇紀1843)寿永2年
 阿古丸の援助を得て書写が行われ、快慶や一門の仏師たちにより書写された

 <截金>
 快慶が新しい文様を生んだといわれる