慶派(けいは)
基本情報
平安時代末期から江戸時代の仏師の一派
始祖:定朝
別称:七条仏所
慶派(けいは)は、平安時代末期から江戸時代の仏師の一派
定朝の孫 頼助の時代に南都に移り奈良仏師となり、鎌倉時代以降に主流となる
「慶」が名前につく仏師が多いが、南北朝時代以降に直系には「康」の字が用いられるようになる
【経緯】
平安時代後期
1057年(皇紀1717)天喜5年8月1日
仏師定朝が死去する
定朝の子 覚助(かくじよ)は若年で没し、3つの派に別れていく
定朝の弟子 長勢(円派)、覚助の弟子 院助(院派)が受け継ぎ、京都で活躍し、
院派、円派は、貴族階級(平氏)と結びつき、隆盛を極めていく
覚助の子 頼助(らいじょ)は、技術の上では院助より劣っていたらしく、作風も宮中や公家社会に受け入れられず、
早くから南都奈良に下って、祖父 定朝のときから関係の深かった興福寺の仏師となる
1180年(皇紀1840)治承4年
平重衡の兵火で焼失した東大寺、興福寺など南都の大寺院の復興造仏事業に運慶、快慶らが携わり、
復興作業による造仏は慶派がほとんど独占する
鎌倉時代
貴族から武士(源氏)の世に移り、貴族たちと親密な関係の院派や円派を敬遠し、
康慶や運慶、快慶の現実的な写実性と力強く豪快な躍動的な造形が武家に受け入れられ、慶派が隆盛していく
京都七条に仏所を置いたので、「七条仏所」とも称された
【主な仏師】
<慶派の名前の由来>
名前に「慶」がつく仏師が多かったため
南北朝時代以降は、「康」の字を用いることが多くなる
(奈良仏師の系図)康尚-定朝-覚助-頼助-康助-康朝-成朝
<康慶(奈良仏師 康朝の弟子)>
<運慶(康慶の長男)>
<定覚(康慶の次男)>
<快慶(康慶の弟子)(安阿弥様)>
<定慶(康慶の弟子)>
<湛慶(運慶の長男)>
<康運(運慶の次男)>
<康弁(運慶の三男)>
<康勝(運慶の四男)>
<運賀(運慶の五男)>
<運助(運慶の六男)>
<康正(「定朝より二十一代」と称した)>