明円(みょうえん)

基本情報

平安時代末期から鎌倉時代初期の仏師
生年:生年不詳
没年:1199年(皇紀1859)正治元年
父親:忠円
流派:円派
弟子:朝円・寛円、寛円の弟子:定円

明円(みょうえん)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の仏師

 円派の優美な伝統的彫刻様式で、院派の院尊と並び、京都・ 奈良を中心に活躍した

 明円より以後の円派は衰退していく
【経緯】
 平安時代末期
 生年不詳

 1166年(皇紀1826)仁安元年9月
 故 摂政 近衛基実の法要にともない、等身の阿弥陀如来・三尺五寸の観音菩薩・三尺五寸の不動明王の三躯を造る
 これにより、法橋位に叙せられる

 1167年(皇紀1827)仁安2年10月から
 中宮 建礼門院の安産を祈願して、造仏が行われ、その中心的な役割を果たす
 内大臣 平重盛が発願した六観音菩薩、後白河法皇が発願した等身の不動明王・大威徳明王、
 白河殿平盛子による不動明王、白河殿の女房冷泉局による千手観音菩薩像、
 平重盛の薬師如来像および不動明王など
 11月12日に、建礼門院は、後の安徳天皇を出産する

 1174年(皇紀1834)承安4年2月
 八条院障子内親王の発願により、仁和寺の常磐林あたりに建立された蓮華心院の造仏をする
 これにより、法眼に叙される

 1176年(皇紀1836)安元2年4月
 藤原経房が「百年臨終の時、迎接(ごうじょう)に預かるため」に造らせた三尺の阿弥陀如来像を造る

 同年11月から翌年にかけて
 唯一、大覚寺に現存する五大明王像を造立する

 1180年(皇紀1840)治承4年8月
 右大将 藤原良通夫人の病気平癒を祈って不動明王を造る

 1182年(皇紀1842)寿永元年11月
 故皇嘉門院 藤原聖子の周忌法事のため、半丈六の仏像を造り、女院のお墓のある最勝金剛院に安置された

 1191年(皇紀1851)建久2年5月から1194年(皇紀1854)建久5年9月
 平重衡による南都焼打ちの後の復興にともなう、興福寺金堂の造仏を手がける
 丈六の本尊 釈迦如来、脇侍の薬王菩薩像・薬上菩薩像、二組の十一面観音菩薩像、一具の四天王像、
弥勒浄土像、吉祥天像などを造仏されたといわれる
 院尊は、講堂の造仏を受け持った

 1195年(皇紀1855)建久6年3月
 中宮 宜秋門院 藤原任子の着帯のために、七仏薬師・延命菩薩・不動明王を造る

 1199年(皇紀1859)正治元年の秋頃
 死去したといわれる
【代表作】
 慶派の台頭した時期に、円派の伝統的な彫刻様式を伝えた

 <木造 五大明王像(重要文化財)>
 唯一、現存する作品
 大覚寺の本尊
 金剛夜叉明王・降三世明王・不動明王・軍荼利明王・大威徳明王
 1176年(皇紀1836)安元2年11月頃の作

 金剛夜叉明王像と軍荼利明王像との台座裏に、制作時と「七条殿御所」と墨書した銘がある
 東寺講堂の五大明王を手本としながら、平安時代初期とは全く異なった藤原貴族の好みを反映させた
優美さと洗練さを兼備した作品といわれる
【円派】
 <円派>
 平安時代末期から鎌倉時代初期に活躍した仏師の流派

 南都仏師系譜によれば、長勢-賢円-忠円-明円と直系仏師が連なる

 明円より以後の円派は衰退していく