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石清水八幡宮
石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)は、八幡市の男山山頂にある神社
王城守護の神、王権の神として歴代朝廷に崇拝され、伊勢神宮に次ぐ国家第二の宗廟とされている
宮中の四方拝で遥拝される一社
源氏が氏神としたことから、清和源氏の足利氏・徳川氏・今川氏・武田氏なども氏神とし、武の神、弓矢の神、戦勝の神さんとして武家の信仰も厚かった
 八幡宮総本社の宇佐神宮(大分県宇佐市)から勧請されたもので、日本三大八幡宮の一つ
源頼義による壺井八幡宮や源頼義・源頼朝による鶴岡八幡宮など、石清水八幡宮から勧請されて、全国に数多くの八幡宮が建立された
 創建時より明治維新までは、境内の護国寺と一体になる宮寺形式の神仏習合の神社で、付属の寺院が多数存在していた
 日本三大勅祭の一つの石清水祭は、平安時代から仏式で行われていた放生会が由来
 男山の地は、京都の裏鬼門(南西)にあたる桂川・宇治川・木津川の3つの川の合流点を挟んで天王山と対峙する交通の要所であり、政治的・軍事的にも重要な拠点である
 染井吉野、ボタン桜などの桜の名所

石清水八幡宮:目次
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基本情報

所在地:八幡市八幡高坊 石清水八幡宮HP
祭神:八幡三所大神
      中央 八幡大神(誉田別尊(応神天皇)
      西  比咩大神(ヒメオオカミ)(宗像三女神)
      東  息長帯比売命(神功皇后)
社格:明神二十二社上七社、官幣大社、別表神社、勅祭社
創建:行教
神紋:流れ左三つ巴紋
二所宗廟の一社(伊勢神宮と石清水八幡宮)
日本三社の一つ(伊勢神宮、賀茂社、石清水八幡宮)
日本三大八幡宮の一つ(宇佐神宮、筥崎宮または鶴岡八幡宮)
日本三大厄除の一つ
日本三大勅祭の一つ(賀茂祭(葵祭)、春日祭、石清水祭)
神仏霊場会81番(京都1番)
国の史跡:石清水八幡宮境内と松花堂およびその跡
通称:男山八幡宮(おとこやまはちまんぐう)
ご利益:厄除開運・必勝・商売繁盛・家内安全

Map 情報

【経緯】

 奈良時代
 雄徳山(おとこやま)(男山)には、石清水寺(現在の石清水社ともいわれる)があり、霊泉を祀っていたといわれる

 平安時代初期
 859年(皇紀1519)貞観元年4月
 奈良の大安寺(だいあんじ)の僧 行教が、豊前国(大分県)の宇佐八幡宮(うさはちまんぐう)を参拝し、
三所大菩薩宝前で大乗経典を転読し、六時不断真言密教を誦念する
 同年7月
 行教が、都へ帰るとき、八幡大神より「われ都の近くに移座し、国家を鎮護せん」と神託を受ける
 宇佐からの帰りの船上で、金色の鳩が柱に止まり光を放ち、行教の袖に弥勒菩薩の影が映ったといわれる
 同年8月
 淀川を上って離宮八幡宮に到着し、その地に神霊が祀られた
 行教が、そこで御神体を祀る場所を問うと、夜に「石清水男山の峯なり」との神託があり、男山の頂に光り輝く物が
見えたといわれる
 その翌朝、男山に登り、3日間祈念し神霊を祀ったとされる

 清和天皇の命を受けた木工寮権允(ごんのじょう)橘良基は、八幡造の本殿三宇、礼殿三宇など、六宇の宝殿を造営する

 860年(皇紀1520)貞観2年4月3日
 八幡三所大神が勧請され、伊勢神宮に次ぐ国家第二の宗廟として朝廷に崇敬される
 男山の中腹に湧き出ている霊泉「石清水」にちなんで、「石清水八幡宮」と称される

 862年(皇紀1522)貞観4年
 石清水寺が「護国寺」と改称され、別当に行教の甥 安宗が任じられ、石清水八幡宮と護国寺を兼務したとされる

 863年(皇紀1523)貞観5年頃
 放生会(現在の石清水祭)が始まる

 896年(皇紀1556)寛平8年
 益信(行教の弟)が、石清水八幡宮初代の検校に任じられる

 942年(皇紀1602)天慶5年
 朱雀天皇により、承平天慶の乱の平定のお礼の祭事として、石清水臨時祭が始められる

 948年(皇紀1608)天暦2年
 方生会が勅祭として行われる

 971年(皇紀1631)天禄2年
 石清水臨時祭に勅使が遣わされ恒例となる

 979年(皇紀1639)天元2年
 円融天皇が行幸され、その後、歴代天皇の参詣を受ける

 1039年(皇紀1699)長暦3年
 「二十二社奉幣の制」のうち「上七社」に列せられる

 1046年(皇紀1706)永承元年頃
 源義家(みなもとのよしいえ)が7歳のとき、石清水八幡宮で元服し「八幡太郎(はちまんたろう)」と名乗る

 弓矢の神、戦勝の神として武家の信仰も篤く、源氏の氏神として、八幡信仰が全国に広まる

 1274年(皇紀1934)文永11年、および、1281年(皇紀1941)弘安4年
 元寇に対して、東巌慧安が「蒙古降伏祈願文」を石清水八幡宮の八幡大菩薩に奏上し、国家安泰を祈願した

 1352年(皇紀2012)正平7年/文和元年 八幡の戦い
 石清水八幡宮を舞台に、南朝・北朝の合戦が起こった

 1428年(皇紀2088)正長元年
 5代将軍 足利義量の跡取の指名が行われなかったため、石清水八幡宮でのくじ引き(神判)が行われ、
足利義円(足利義教)が6代将軍に決まる

 1465年(皇紀2125)寛正6年
 8代将軍 足利義政、日野富子が、安産祈願に参拝し、その年に9代将軍 足利義尚が生れる

 1606年(皇紀2266)慶長11年
 豊臣秀頼が社殿を造営する

 1610年(皇紀2270)慶長15年
 石清水八幡宮領を「検地令免許、守護不入」の地とする徳川家康の朱印状が届く

 1634年(皇紀2294)寛永11年
 3代将軍 徳川家光により現在の社殿が建立される

 1863年(皇紀2523)文久3年4月10日
 孝明天皇が攘夷祈願のために行幸される
 (前月3月には、上賀茂神社、下鴨神社に行幸され攘夷祈願が行われている)

 1868年(皇紀2528)慶応4年
 鳥羽・伏見の戦いで、石清水八幡宮に幕府軍の陣がしかれ、官軍が勝利し、極楽寺など一部の堂宇が焼失する

 1868年(皇紀2528)明治元年
 仏教的神号の「八幡大菩薩」が、明治政府によって禁止され、「八幡大神」と改称される

 1871年(皇紀2531)明治4年
 官幣大社に列し、社号を「男山八幡宮」に改名する
 放生会(旧暦8月15日)は、中秋祭(旧暦9月15日)とされる
 1918年(皇紀2578)大正7年
 「石清水八幡宮」に復名する

 1926年(皇紀2586)昭和元年
 男山ケーブルが敷設される

 1952年(皇紀2612)昭和27年
 作庭家 重森三玲により作庭が行われる

 1991年(皇紀2651)平成3年
 校倉宝庫より神像群が発見される

 2010年(皇紀2670)平成22年
 八幡宮跡、護国寺跡の遺構が確認される

 2012年(皇紀2672)平成24年1月24日付
 石清水八幡宮境内が国の史跡として指定される

 2016年(皇紀2676)平成28年2月9日
 本社10棟および附(つけたり)・棟札3枚が国宝に指定される

【祭神】

 <八幡三所大神(八幡大神)>
 祀られている三座の神の総称
 八幡大神は、「世は変われども神は変わらず」と託宣された

 都の守護神、国家安泰の神として朝廷や広く国民に篤い崇敬を受けている

 清和天皇の嫡流である源氏一門は八幡大神を氏神として尊崇し、全国各地に八幡大神が勧請された
 源義家は、石清水八幡宮で元服し、自らを「八幡太郎義家」と名乗った
 以来、国家鎮護、厄除開運、必勝・弓矢の神として信仰を受けてきている

 <中御前>
 誉田別尊(応神天皇)

 <西御前>
 比咩大神 (ひめおおかみ)(宗像三女神:多紀理毘売命(たぎりびめ)、市寸島比売命、多岐津比売命(たぎつひめ))

 <東御前>
 息長帯比売命(神功皇后)

 <神像>
 主祭神三体は、神像として本殿内に祀られている
 垂迹形(俗人姿)の坐像で、僧形八幡の男神一体と、女神二体が、椅子の上に安置されている
 背後左右には、10体の髭面の若宮神像が並んでいる

【境内】

 約8万坪の広さがある「石清水八幡宮境内」と「松花堂およびその跡」が、国の史跡に指定されている
 本社10棟(本殿・摂社武内社本殿・瑞籬・幣殿及び舞殿・楼門・東門・西門・廻廊3棟)および附・棟札3枚が国宝に指定されている

 表参道は「大坂」、裏参道は「太子坂(奉行坂)」と称される

 山頂の廻廊の中に、南から楼門、舞殿(ぶでん)、弊殿、本殿の外殿(がいでん)、内殿(ないでん)と建ち並んでいる
 通常は、楼門より中には入れない
 廻廊の手前には築地塀(ついじべい)があり、正面の西総門と東総門、北総門がある

 <本殿(国宝)>
 檜皮葺、切妻造、平入の建物が、前後に2棟並んで建っている
 859年(皇紀1519)貞観元年
 木工寮権允 橘良基が、清和天皇の勅命により六宇の宝殿を建立する
 その後、14度の再建、17度の修理が行われたといわれる

 1071年(皇紀1731)延久3年に、現在のような「相の間」を含めた3殿が横につなげられたといわれる
 1634年(皇紀2294)寛永11年
 現在の社殿が、三代将軍 徳川家光によって造営される
 内殿と外殿の前後2棟が「相の間」を介して並べて建てられており、「八幡造」と称される
 本殿から前に幣殿・舞殿・楼門が続き、周囲を180mにおよぶ回廊で囲まれている
 すべての建物が丹漆塗りで、随所に極彩色の彫刻が刻まれている

 <黄金の雨樋>
 本殿の内殿と外殿の間の「相の間」の桧皮葺屋根の軒が接するところに架けられている
 織田信長によって寄進されたもの
 長さ21.7m、幅54cm、深さ21cm
 1579年(皇紀2239)天正7年12月
 織田信長が雨宿りのために山崎の宝積寺に寄ったとき、石清水八幡宮の木製の雨樋が損傷して雨漏りがしていることを
聞いて修理を命じる
 1580年(皇紀2240)天正8年8月
 木製から唐金の雨樋に造り替えられた
 これは、もし天災などにより修理の必要が起こったときには、これを換金し対処するようにとのことといわれる

 <瑞籬(みずがき)(国宝)>
 本殿を囲む瑞籬には、極彩色の欄間彫刻が150点以上も施されている
 江戸時代の名工 左甚五郎一派の作ともいわれる
 「かまきり」や「りすとぶどう」「天人(てんじん)」など珍しい彫刻もある

 <幣殿(国宝)>
 本殿の前にある
 蟇股には4つの神紋「流れ左三つ巴紋」の彫刻が施されているが、1つだけ右巴がある
 これは、まだ社殿は未完成であり、今後もさらに発展を遂げるという祈願と縁起が込められているといわれる

 <舞殿(国宝)>
 幣殿の前にある
 建物の前の東西両側には、橘の木が植えられおり、秋から冬にかけて黄金色の実をつける

 <楼門(国宝)>
 唐棟の拝所一間一戸、入母屋造、檜皮葺、向拝は唐破風、楼門上層は三間・二間、丹塗り
 1634年(皇紀2294)寛永11年
 三代将軍 徳川家光により修造される
 門の内側に、葵の紋がある
 正面の蟇股の部分には、神使である鳩が一対、阿吽の形で向かい合っている錺金具がある
 双鳩の少し上には、極彩色の龍虎の欄間彫刻が、東に虎、西に龍と施されており、四神相応とは逆になっている
 これは、社殿を修造した徳川家光の生まれが辰年で、徳川家康が虎年生まれで、上位(東)に虎を配置されたといわれる

 <隠し葵>
 正面蟇股の双鳩(錺金具)の裏側に、神紋とともに「葵の紋」が、錺金具に彫られている
 参拝者からは見えないが、本殿の祭神からは、真正面に見える

 <廻廊(国宝)>
 楼門-東門間、楼門ー西門間、背面に廻廊が設けられている
 入母屋造、梁間2間、内廊と、1間の庇がある外廊がある
 鬼門封じのため、東北の角の石垣が斜めに切りとられている

 <廻廊の東門(国宝)>

 <廻廊の西門(国宝)>
 蟇股の部分に、琵琶の木にぶらさがり木の実をくわえる一匹の猿の彫刻がある
 名工 左甚五郎の作といわれ、「目貫きの猿」と称される
 この猿に魂が宿り、夜になると蟇股から抜け出して山麓の畑を荒らすので、抜け出せないように右目に釘が
打ちつけられたといわれる

 <校倉(京都府指定文化財)>
 築地内北西隅にある宝蔵
 校倉造
 江戸時代中期からある貴重な校倉建築
 かつては経蔵であったといわれる

 <信長塀>
 本殿の回廊の外側周囲に巡らせている築地塀
 瓦と土が幾重にも重ねられ、耐火性と、耐久性に優れているといわれる
 織田信長の寄進によるもので、織田信長が好んで採用した様式といわれている

 <築地塀の南総門(重要文化財)>
 男山の山上、社殿前に建つ社殿への入口の門
 社殿の正面を通ることのないよう、南総門、参道は東寄りに造られている

 <築地塀の東総門(重要文化財)>
 <築地塀の西総門(重要文化財)>

 <書院>
 三ノ鳥居から南総門の間の東側にある

 <書院石庭>
 枯山水庭園
 南北約8m、東西約6mの方形で、三方が塀で囲まれている
 一面に白砂が敷き詰められ縦の砂紋が引かれており、海神の八幡大神にちなんで海洋が表されている
 白砂の上に、男山から集められた14個の石を大海原に浮かぶ島に見立てて置かれている
 鎌倉時代の石灯籠(重要文化財)の周囲に3石、その対角線上の角に大小4石が組まれている
 他の2隅に、それぞれ3石ずつで、三尊石として組まれている
 1952年(皇紀2612)昭和27年
 重森三玲の作庭

 <石灯籠(重要文化財)>
 書院石庭の東南の角に置かれている
 「永仁三年未乙三月(1295年(皇紀1955)永仁3年3月)」の刻銘がある
 花崗岩製、六角形、基礎に格狭間、高さ2.16m
 作庭された時に、参道から運び込まれた

 <一ノ鳥居>
 男山の麓の表参道入口に立つ
 高さ約8.8m、幅約11mの花崗岩製、明神鳥居
 1636年(皇紀2296)寛永13年、松花堂昭乗の発案により、木製から石鳥居に造り替えられた
 紺地に金文字の銅製の扁額「八幡宮」は、
 元は、長徳年間に、一条天皇の勅額で、平安の三蹟とされる藤原行成の筆のもの
 現在のものは、1619年(皇紀2279)元和5年に、寛永の三筆とされる松花堂昭乗が、藤原行成の筆跡の通りに書写したもの
 「八」の字は、八幡大神の神使である鳩が一対向かい合い、顔だけを外に向けた独特のデザインとなっている

 <二ノ鳥居>
 頓宮から登った表参道にある

 <三ノ鳥居>
 三ノ鳥居から南総門まで続く約100mの石敷の参道は「馬場先」と称され、両脇には、楠木などが植えられ、
約400基の石燈籠が立ち並んでいる
 1645年(皇紀2305)正保2年
 信濃守 永井尚政により建立された
 1962年(皇紀2622)昭和37年
 現在のものが再建される

 <一ッ石>
 三ノ鳥居付近の石敷の参道の中央に露出している自然石
 この石と本殿の間で、お百度参り、お千度参りが行われる
 かつて南総門下には「五ッ石」があった
 「一個石(ひとついし)」「勝負石」「勝運石」「お百度石」「亀石」「下の駒留石」などとも称される
 本殿参拝を終えた参詣者は、一ッ石の前で再び本殿に向かい拝礼するという習わしがある

 <手水舎>
 <御羽車舎>
 <神馬舎>

 <供御所>
 天武天皇の詔「諸国に詔して放生たしむ」の額が掛けられている
 中には、台所守護神竈神殿(そうじんでん)があり、迦具土神(かぐつちのかみ)、奥津日子神(おきつひこのかみ)、
弥都波能売神(みづはのめのかみ)、奥津比売神(おきつひめのかみ)が祀られている

 <鳩峯寮(きょうほうりょう)>

 <鳩峯寮の庭>
 三ノ鳥居のそばにある、点と線の石組みの庭
 1951年(皇紀2611)昭和26年の第二室戸台風で倒壊した三ノ鳥居の石材が再利用されている
 円柱、角材が立てられており、破断面が見えるようにも置かれている
 1966年(皇紀2626)昭和41年
 重森三玲による作庭

 <細橋(ささやきばし)>
 本殿東外門の東にある
 「ささやき」は、「ささやか」の意味があり、かつては細木で造られ、「細い木の橋」を意味していた
 かつて、本殿東門付近から石清水が湧きだし、この橋の下を通って流れており、四隅には榊を立て、注連縄が張られ、
渡ることができない橋だった

 <エジソン記念碑>
 1879年(皇紀2539)明治12年
 トーマス・アルバ・エジソンが炭素白熱電球を発明し、石清水八幡宮境内に生えている竹がフィラメントの材料として
最も適しているとされ、10数年間、この竹を使ってたくさんの炭素電球が作られ、炭素白熱電球の実用化に貢献した
 背後には、白熱電球のフィラメントとして使われた真竹が植えられている

 <涌峯塔(ゆうほうとう)>

 <御文庫裏および神楽殿北側のクスノキ(京都府指定天然記念物)>
 1334年(皇紀1994)建武元年
 楠木正成が、戦勝軍利を祈願して、多くの楠の木を植えた
 大きなものは根周り約18m、樹高約30mになる

 <カヤの神木>
 南総門前東側に立つ榧の木
 樹齢700年以上、根周り7m、樹高約20m
 春に開花し、果実は秋に成熟する
 この榧の実は、石清水祭の神饌として使われる
 茶道 裏千家の初釜式において、新春のお飾り「蓬莱山飾り」にも用いられている

 <都山流尺八楽会初代宗家中尾都山顕彰碑>
 尺八都山流流祖 中尾都山は、大阪府枚方市に生まれ、幼児の頃、石清水八幡宮に参拝して以来、没年まで約75年間、
八幡大神を守護神として崇敬された
 全国を行脚し、斯道(尺八)の普及に努め、明治29年に都山流を創始する
 秘曲「岩清水」は、石清水八幡宮に参拝して曲想を考案し、作曲されたもの
 毎年5月下旬の春季献茶祭の表千家の奉仕による献茶において、「岩清水」が現在の宗家により奏される

 <雄徳山茶園(おとこやまちゃえん)>
 2004年(皇紀2664)平成16年、石清水献茶講設立60周年記念として21年ぶりに復活する
 以降、毎年、八十八夜の頃に茶摘みが行われる
 2009年(皇紀2669)平成21年からは、皇室への献上茶として、茶摘みおよび手もみ製茶が行われている

 <石翠亭>
 山上の休憩所・喫茶・軽食・茶房

 <青少年文化体育研修センター>
 食事・宿泊・研修・合宿、写真撮影や着付けなどが行われる
 本館 清峯殿
 体育館 楠峯館

 <名水>
 境内には、6つの井戸がある
 この地の下には巨大な岩盤があり、かつて埋め立てられた巨椋池の地下水脈が湧き出している

 石清水井:
 男山の中腹にある石清水社の泉殿に湧き出している霊泉「石清水」の井戸
 「石清水八幡宮」の名前の由来となっている
 厳冬にも凍らず、日照りのときにも枯れたことがないといわれる
 八幡五水の一つとされる
 石清水八幡宮の創建以前には、傍に石清水寺が建立されており、本宮創建と同時に石清水寺は「護国寺」となったといわれる
 皇室や将軍家の参拝のときには、石清水の水が本殿神前に献上されてきた
 現在でも、石清水八幡宮にて行われる年間100余の祭事には、当日早朝にくみ上げられた石清水が神前に献供される

 筒井:一ノ鳥居の近くの瓦葺泉殿に湧く
 八幡五水の一つ

 藤井:高良社前にある
 八幡五水の一つ

 <男山の桜>
 男山全体で約2000本の桜がある桜の名所
 染井吉野(ソメイヨシノ)、枝垂桜(シダレザクラ)、牡丹桜(ボタンザクラ)などがある
 江戸時代中期の文人 柏村直條が「八幡八景」の一つに選ぶ
 江戸時代後期に、ほとんど枯れてしまうが、同宮の宮大工 藤原尚治が復活させる
 幕末維新の鳥羽・伏見の戦いで、山麓の桜は大半が焼けてしまう
 戦後、1952年(皇紀2612)昭和27年から植樹が進められる
 1987年(皇紀2647)昭和62年から桜まつりが行われている

 <頓宮>
 男山の麓の一ノ鳥居の奥にある
 年に一度、石清水祭において、山上の本殿より神霊が遷され、重儀が斎行される重要な宮(御旅所に相当する)
 檜皮葺、素木造、三方に縁、高欄付
 鳥羽・伏見の戦いで焼失
 男山四十八坊の一つ「岩本坊」の神殿を移築し仮宮とされた
 1915年(皇紀2575)大正4年、現在の社殿が建立される
 2010年(皇紀2670)平成22年から2011年(皇紀2671)平成23年にかけて修復工事が行われ、
 1949年(皇紀2609)昭和24年以来、実に62年ぶりの屋根の葺き替えとなり、桧皮葺であった屋根から、
より耐久性のある銅板葺に葺き替えられた

 頓宮神饌所(斎館)

 頓宮南門は、1868年(皇紀2528)慶応4年に焼失
 1939年(皇紀2599)昭和14年に、山上の南総門を移築されたもの
 頓宮殿と同様、平成の大修造において、桧皮葺屋根から銅板葺屋根に葺き替えられた

 頓宮北門は、檜皮葺、四脚門

 <放生池>
 頓宮の手前にある池
 約270坪
 1999年(皇紀2659)平成11年まで、放生行事がここで行われていた

 <池の間(頓宮参集所)>
 1868年(皇紀2528)慶応4年
 ここに建っていた極楽寺が焼失した

 <五輪塔(航海記念塔)(重要文化財)>
 頓宮から西側200mほどにある石塔
 花崗岩製、高さ約6m、下部の方形の一辺2.4mで、日本最大級の石造塔とされる
 五輪塔は、密教思想に基づき、「地・水・火・風・空」の「宇宙の五大要素」を形象化し、下から一段目が地輪(四角)、
二段目が水輪(丸)、三段目が火輪(三角)、四段目が風輪(半月)、五段目が空輪(宝珠)とされ、「五輪」をあわせて
「全ての徳を具備する」という意味を持つとされる

 高倉天皇の時代に、「中国 宋と貿易をしていた尼崎の商人が、石清水八幡宮に祈り海難を逃れたため、
その御礼と感謝のために建立したといわれ、「航海記念塔」とも称されている
 父母の死後の忌明けの日に、喪中の穢れを清めるために参拝する「忌明塔」とも称される
 鎌倉時代には、武士の霊を慰めるための「武者塚」とも称される
 石清水八幡宮を建立した行教のお墓ともいわれる

 明治維新の廃仏毀釈以前には、神宮寺だった極楽寺の境内に置かれていた

 <タブの木>
 摂社 高良神社の御神木
 樹齢約700年の巨木
 「厄除の木」として信仰されている

 <頼朝手植え松>
 二ノ鳥居も手前にある
 「男山考古録」によると、源頼朝が奉納されたといわれる「六本松」
 「吾妻鏡」によると、源頼朝は5度の参詣をされており、建久6(1195)年4月3日には妻 北条政子と娘を連れて私的参拝、
同月15日には長男 源頼家と公的参拝をされた
 源頼朝が49歳のとき、鎌倉から持ってきた6本の松の苗木をこの地に植え、帰路はこの地より持ち帰った松を
鶴岡八幡宮の境内に植えたといわれる

 1947年(皇紀2607)昭和22年、唯一の生き残りであった松が落雷により焼失してしまう
 1955年(皇紀2615)昭和30年、現在の「頼朝松」が奉納された2代目

 <大谷川(放生川)>
 放生会が行われる川
 安居橋(あんごはし)が架かる

 <神幸橋>

 <駒返橋>
 表参道の七曲がりを過ぎた分岐点から、石清水社の方へ右に曲がり山へ入ったところにある石橋
 上り坂が急であり、馬がここで引き返したといわれる

 <影清塚(かげきよづか)>
 表参道の七曲がりを過ぎた分岐点にある塚
 「旧蹟 かげきよ塚」の石碑が立ち、一対の柏樹が茂っている
 この辺りを「祓谷(はらいたに)(禊ぎ祓いの場)」と称され、小川の水で禊ぎがされていた
 かつて、瀬織津姫を祀る祓谷社があり、夏越大祓と年越大祓の神事が行われていた
 参拝者は、ここで石清水の流れに自らの影を映して、身繕いを正し不浄を払い清めたといわれる

 <松花堂跡(国の史跡)>
 影清塚から摂社 石清水社へ向かう途中にある小さな空き地
 1637年(皇紀2297)寛永14年
 石清水八幡宮の社僧 滝本坊住職だった松花堂昭乗が隠居地として方丈の草庵を建て「松花堂」と称した
 二畳茅葺の茶室で、仏壇や水屋があった
 明治維新の廃仏毀釈で、松花堂の建物・庭園は売却され、各地を転々とした後、八幡市女郎花の東車塚古墳上に移築される
 1977年(皇紀2637)昭和52年
 現在の松花堂庭園が、八幡市の所有となり管理運営されている

 <八角堂(国の史跡)>
 境内の男山西谷に阿弥陀如来を本尊として建立された仏堂
 現在は、正法寺の境外仏堂になっている

 <豊蔵坊跡>
 男山四十八坊の一つ豊蔵坊の跡
 徳川家康が三河の大名のころからの祈願所で、42歳の本厄にあたり、自分の姿を写した等身大の像を
豊蔵坊本堂の神殿に祀った
 江戸時代には、江戸幕府の祈祷所となっていた
 明治維新の廃仏毀釈で、撤去された
 現在、徳川家康像は、等持院に安置されている

 <青雲寮>
 京都國學院の男子学生寮

 <男山ケーブル>
 男山の山麓と山上を約3分で結ぶ
 ケーブルカーの鉄橋としては日本一の橋脚(約50m)がある
 1926年(皇紀2586)大正15年、男山索道が八幡口 - 男山間を開業
 1944年(皇紀2604)昭和19年、戦時中の鉄資材供給のため廃止
 1955年(皇紀2615)昭和30年、京阪電車鋼索線として八幡口- 八幡宮(男山山上)間が再開業される

【摂社】

 南北朝時代の「石清水八幡宮末社紀」や、1848年(皇紀2508)嘉永元年の「男山考古録」によると、
30社ほどの摂社・末社があったとされる

 現在の神社配布の「石清水八幡宮由緒略記」によると、境内の内外に摂社8社・末社7社が祀られている

 <武内社(国宝)>
 本殿内にある
 祭神:武内宿禰命(タケウチスクネノミコト)
 860年(皇紀1520)貞観2年の鎮座
 「男山考古録」によると、本宮瑞垣の裏の戌亥隅(北西)にある南向きの小祠で、俗形2躰の木彫像が祀られていた
 祠は、寛永11年(1634)、徳川家光により造営されたとされる
 現在は、本殿内に合祀されており、外からは見えない
 祭神の武内宿禰命は、応神天皇・神功皇后にも仕えたといわれる伝説上の人物
 長寿であったことにあやかり、延命長寿として信仰されている

 <若宮社(重要文化財)>
 築垣内の本宮北側の右寄りにある
 祭神:仁徳天皇(応神天皇の跡継ぎ)
 869年(皇紀1529)貞観11年の鎮座
 「男山考古録」によると、本宮鎮座の頃からの小祠で、仁徳天皇1座を祀るとされている
 中には、和魂・荒魂を現す柔和型・忿怒型2躰の神像が祀られているといわれる
 摂社の中で最も大きな社殿で、本殿の改修時などでは仮本殿とされる
 男性の守護神とされ、特に厄年の男性に信仰されており、清め衣に氏名、願い事などを記して納める

 <若宮殿社(重要文化財)>
 築垣内の本宮北側の若宮社の右にある
 祭神:応神天皇の皇女
 869年(皇紀1529)貞観11年の鎮座
 三間社流造
 「男山考古録」によると、応神天皇の皇女2柱を祀り、神像2躰が祀られているとされる
 女性の守護神とされ、特に厄年の女性に信仰されており、清め衣に氏名、願い事などを記して
 祈願される参拝者が奉納した黄色い衣が社殿の柵に掛けられている

 <水若宮社(重要文化財)>
 築垣内の本殿右の北寄りにある
 祭神:宇治稚郎子命(応神天皇の皇子)
 869年(皇紀1529)貞観11年の鎮座
 一間社流造
 祭神の宇治稚郎子は、宇治神社・宇治上神社の主祭神でもある

 <住吉社(重要文化財)>
 築垣内の本殿北側、左寄りにある
 祭神:住吉三神(底筒男命、中筒男命、表筒男命)
 869年(皇紀1529)貞観11年の遷座
 一間社流造
 祭神の住吉三神は、神功皇后の朝鮮出兵のときに守護された神で、海の神・航海安全の守護神とされる

 <高良社(こうらしゃ)>
 境外摂社で、頓宮南西側の馬場先を少し進んだ右手(西方)の高台にある
 祭神:高良玉垂命(コウラタマダレ)
 鎮座時期は不詳
 「男山考古録」によると、かつては男山の東を流れる放生川の河原にあり、「河原社」と称される八幡の氏神とされる
 極楽寺や頓宮の造営のときに川幅が広げられることになり、現在の地に遷される
 その後、筑紫の高良大社(久留米市)が勧請されたといわれる
 祭神の高良玉垂命は、神功皇后の朝鮮出兵のときに、八幡大神を補佐したといわれる
 創建は、860年(皇紀1520)貞観2年とも869年(皇紀1529)貞観11年ともいわれ
 1868年(皇紀2528)慶応4年の鳥羽・伏見の戦いで焼失し、1882年(皇紀2542)明治15年に再建、
 1915年(皇紀2575)大正4年に現在の建物が再建される
 7月18日には、高良祭(太鼓祭)が行われ、担がれた屋形太鼓が巡行する

 <石清水社(京都府指定文化財)>
 境外摂社で、本宮の東の山中にある
 祭神:天之御中主神(アメノミナカヌシ)
 「男山考古録」によると、泉殿の祭神は、石清水八幡宮が創建される以前から「水屋神」と称されて信仰されてきたもの
 泉殿(京都府指定文化財)は1618年(皇紀2278)元和4年に、それまでの泉を井戸に改められ、覆屋が設けられたといわれる
 石造 神明鳥居(京都府指定文化財)は、1636年(皇紀2296)寛永13年、当時の京都所司代 板倉重宗の寄進により
建立されたもの
 境内にある最古の鳥居で、銘文は松花堂昭乗の書とされる

 泉殿の石清水井には、「八幡五水」の一つの霊泉「石清水」が湧き、「石清水八幡宮」の名前の由来となる
 厳冬にも凍らず、日照りのときにも枯れたことがないといわれ、皇室や将軍家の参拝のときに献上されてきた

 <狩尾社(とがのおしゃ)(重要文化財)>
 境外摂社で、男山の西方の約1kmの橋本 狩尾山の山上の飛地境内に、本殿・拝殿が前後に建っている
 祭神:天照大御神・大穴牟遅命・天之子八根命
 「本宮由緒略記」によると、石清水八幡宮の創建以前からあり、地主神とされる
 1374年(皇紀2034)文中3年/応安7年に焼失して、その後、再建されている
 10月25日には、狩尾社祭が行われる

【末社】

 南北朝時代の「石清水八幡宮末社紀」や、1848年(皇紀2508)嘉永元年の「男山考古録」によると、
30社ほどの摂社・末社があったとされる

 現在の神社配布の「石清水八幡宮由緒略記」によると、境内の内外に摂社8社・末社7社が祀られている

 <気比社(けひしゃ)>
 築垣内の北東隅、水若宮社の左にある
 祭神:気比大神
 1505年(皇紀2165)永正2年の鎮座
 一間社流見世棚造
 祭神の気比大神は、福井県敦賀にある気比神宮(式内社)の主祭神で、神功皇后が朝鮮出兵の前に
戦勝を祈願したといわれる

 <貴船社>
 築垣内の本宮北にあり、龍田社と相殿になっている
 祭神:高大神
 1191年(皇紀1851)建久2年の鎮座
 二間社流見世棚造
 「男山考古録」によると、龍田社とともに八幡宮別当 慶清が、私願により勧請したといわれる
 貴船社の祭神の高大神は水の神、龍田社の祭神の級津彦命・級津媛命は風の神とされる

 <龍田社>
 築垣内の本宮北にあり、貴船社と相殿になっている
 祭神:級津彦命・級津媛命
 1191年(皇紀1851)建久2年の鎮座
 二間社流見世棚造

 <一童社>
 築垣内の本宮北にある
 祭神:磯良神(イソラノカミ)
 鎮座年代は不明
 一間社流見世棚造
 祭神の磯良神は、海の神・航行安全の神
 神功皇后の朝鮮出兵のとき、海底に住む磯良神だけは、顔に牡蠣や鮑が付いていて醜いのを恥じて現れなかったが、
 住吉神(高良神)が奏する音楽に誘われて現れ、龍宮から潮の干満を自在に操る潮満珠・潮干珠の宝珠を借りうけて
神功皇后に献上し、その宝珠のおかげで神功皇后は戦いに勝つことができたといわれる

 <広田社>
 築垣内の本宮西にあり、生田社・長田社と相殿
 1055年(皇紀1715)天喜3年の鎮座
 祭神:天照大御神

 <生田社>
 築垣内の本宮西にあり、広田社・長田社と相殿
 1055年(皇紀1715)天喜3年の鎮座
 祭神:稚日女命

 <長田社>
 築垣内の本宮西にあり、広田社・生田社と相殿
 1055年(皇紀1715)天喜3年の鎮座
 祭神:事代主神
 この3社の本社である広田神社(西宮市大社町)・生田神社(神戸市中央区)・長田神社(神戸市長田区)には、
神功皇后が朝鮮遠征から凱旋されたとき、それそれの地で「この地に祀るように」との神託を受けて祀ったのが由来とされる

 <水分社(みくまりしゃ)>
 東総門の外、東側にある
 祭神:国之水分神
 1280年(皇紀1940)弘安3年の鎮座
 一間社流見世棚造
 「男山考古録」によると、「男山に湧出する霊水を司る神」とされる
 「水分(みまくり)」とは、「水を配る」という意味がある
 「みくまり」から「こもり」と訛って、子守の神とされて、子授け・安産・子供の守護神として信仰されている

 <三女社(さんみょうしゃ)>
 本宮西南方、男山ケーブル山上駅から本宮へ至る道筋の脇にある
 祭神:宗像三女神(多紀理毘売命・市寸島比売命多岐都比売命)
 1339年(皇紀1999)延元4年/暦応2年の鎮座
 一間社流見世棚造
 航行安全・豊漁などを司る海の神さんとして信仰されている

 <大扉稲荷社>
 東の山腹、表参道の七曲がりを過ぎた影清塚の前にある
 祭神:御食津神(ミケツ)(穀物の神・食物の神)
 鎮座時期は不詳
 「男山考古録」によると、この辺りに人に仇をなすキツネがいたので、小祠を造って祀ったのが由来で、
 1829年(皇紀2489)文政12年頃、社殿として改築されたといわれる

 <旧末社 相槌神社(あいつちじんじゃ)>
 男山の東麓、表参道の七曲がりのすぐ下の山麓にある
 かつて末社であったが、現在は独立社となっている
 「男山考古録」によると、かつては、七曲がりあたりに末社としてあったが、
 1696年(皇紀2356)元禄9年に、後藤庄三郎が、麓の山の井脇に社殿を建立して遷したといわれる
 その後、平谷町の人々が祀るようになり、独立社となったといわれる
 「男山考古録」によると、多田満仲(清和源氏2代目)の命をうけた筑紫国の刀匠が、石清水八幡宮に参拝して祈願をしたところ
稲荷神がやってきて相槌を務めてくれ、髭切・膝切という二振りの名刀を打ったといわれる
 鳥居の神額には「三条鍛冶」とあり、三条小鍛冶の伝承にも関連することを示している
 相槌神社の右側には、山の井戸がある

【文化財】

 <石清水八幡宮文書(重要文化財)>
 平安時代中期から明治時代までのもの
 巻物 810巻、冊子本 368冊、書状 897通、地図等 10鋪、折本 21帖、掛軸 5幅、落款等 11顆
 文書が伝来してきた家によって、田中家文書・菊大路家文書・東竹家文書・神官諸家・その他の文書に大別される

 <藤原宣孝「大宰府符」(重要文化財)>
 石清水八幡宮文書の田中家文書の一つ
 992年(皇紀1652)正暦3年の当時大宰府の役人であった奉行 藤原宣孝(後の紫式部の夫)の自筆署名が遺されている

 <「類聚国史」巻第一、巻第五(重要文化財)>
 嘉禄三年五月十九日書冩奥書
 1227年(皇紀1887)嘉禄3年のもの

 <蚯蚓の糸印(みみずのいといん)>
 1589年(皇紀2249)天正17年11月20日付
 豊臣秀吉が石清水八幡宮祠官家の田中秀清に宛てた領地朱印状
 豊臣秀吉の印文が不明で、ミミズが這ったようにも見えることから名付けられている

 <石清水八幡宮護国寺略記(重要文化財)>

 <木造童形神坐像(4躯)(重要文化財)>
 1991年(皇紀2651)平成3年3月
 校倉の中から、大小20数個のバラバラの木片が発見され、組み合わせられ8躯の古神像になった
 桧材・彩色仕上げ、高さは約17cmから47.5cm
 髪をみずらに結い(左右に分けた髪を両耳上で束ね垂れ下げた形)、袍を着て帯を締めた童形の男神像が5躯
 彩色の唐服をまとった女神像が2躯
 僧侶の姿のものが1躯
 どの像も、神像としての役目を終え魂を抜かれた状態であることを示すために手足の一部が欠失している
 2006年(皇紀2666)平成18年6月
 8躯のうち、平安時代末から鎌倉中期にかけて製作されたと見られる男神像4躯が、重要文化財に指定された

 <木像神像(4躯)(京都府指定文化財)>
 発見された8躯のうち、重要文化財に指定されなかった4躯

 <松鳩図絵馬(八幡市指定美術工芸品)>

 <八幡垂迹曼荼羅図(七社御影図)>
 僧形の八幡大神が中央上部、右に神功皇后、若宮、武内宿禰(高良明神)、左に比咩大神、若宮殿(姫若宮)、
高良明神(武内宿禰)の7神の坐像が描かれている
 室町時代のもの

 <石清水八幡宮縁起絵巻 上巻・下巻の2巻>
 詞書の間に絵が挿入されており、各巻7景ずつ計14景が描かれている
 上巻には、仲哀天皇の塵輪退治、神功皇后の御出陣、老翁(住吉大神)の活躍が2景、安曇磯良出現、豊姫の竜宮訪問、
新羅軍の来襲と干珠・満珠の威力などが描かれている
 下巻には、新羅王の降服、応神天皇の誕生、応神天皇の御代の隆盛、八幡大神御示現に関わる場面2景、
宇佐宮宝前に額ずく和気清麻呂、行教による石清水遷座の場面が描かれている
 1728年(皇紀2388)享保13年
 橘継雄により模写されたことが、下巻奥書に記されている
 1433年(皇紀2093)永享5年に足利義教が奉納した土佐光信筆の国宝の原本は、1947年(皇紀2607)昭和22年2月に焼失した
 写本絵巻と、焼失前に撮影された原本写真と比較すると、あまり正確に模写されていないとされる

 <八幡宮縁起絵巻 1巻>
 1289年(皇紀1949)正応2年
 正応二年作との奥書がある

 <豊臣秀吉奉納釣灯籠 >
 1587年(皇紀2247)天正15年に豊臣秀吉から奉納された
 火袋柱には「豊臣太政大臣、天正十五年五丁亥年、八月良辰、宿坊、瀧本坊」の文字が彫られている

 <元結の御教書>
 官軍の猛攻を受けて一時期、九州に落ちのびた足利尊氏が、再び軍勢を率い上洛しようと密かに使者を
石清水八幡宮に送り、戦勝祈願を善法寺通清に依頼したといわれる文書
 使者が髪を束ねる元結(もとゆい)に隠して運んだといわれることから名付けられている

 善法寺家は石清水祠官家嫡流の田中家の支流
 南北朝時代に、田中家は南朝寄り、善法寺家は足利氏が支持する北朝寄りで、善法寺通清の娘 良子が
3代将軍 足利義満の生母となる
 室町幕府歴代将軍の自筆願文や寄進状などが伝えられてきた

 <金剛三鈷杵>
 平安時代のもの

 <クリス剣>
 室町時代のもの

 <松鳩図絵馬>
 円山応挙の筆

 <霊元法皇奉納雅楽器>
 江戸時代の笙、篳篥、連管、太鼓、羯鼓、鉦鼓

【祭事】

 <若水神事 > 1月1日3時
 <歳旦祭 > 1月1日5時
 <元始祭 > 1月3日早朝
 <成人祭・月次祭> 1月15日
 <厄除大祭> 1月15日~19日

 <青山祭> 1月18日夕方
 「疫神祭(道饗祭)」ともいわれる
 日没後、頓宮前庭に青柴垣を囲い、斎場に神籬(ひもろぎ)を立てて、八衢比古(やちまたひこ)・八衢比売(やちまたひめ)・
久那斗神(くなどのかみ)を迎える
 異国人が来日されたときに悪疫を誘引しないように、また、都で悪疫が流行したときなど、都の境界地のこの地で
儀式が行われた

 <厄除大祭焼納神事> 1月19日
 <比咩大神祭 > 1月23日
 <鬼やらい神事>  節分前の日曜日
 <湯立神事> 2月1日、3日
 <初卯祭 御神楽> 2月上卯日
 <紀元祭 > 2月11日
 <エジソン生誕祭 > 2月11日
 <祈年祭 > 2月17日

 <男山桜まつり>
 4月1日~中旬
 舞楽奉納 都山流尺八楽会 武道大会

 <御鎮座祭> 4月3日
 <石清水灯燎華> 5月初旬
 <表千家献茶祭> 5月下旬
 <御田植祭> 6月吉日
 <八幡大神神威景仰祭・鎮護八幡神火祭> 6月卯日
 <水無月大祓式・茅の輪くぐり > 6月30日

 <高良社祭(太鼓まつり)>
 7月18日
 屋形の太鼓神輿が担がれ巡行する

 <勅祭 石清水祭>
 9月15日
 日本三勅祭の一つ(賀茂祭(葵祭)、奈良の春日祭)の勅祭社
 賀茂社の賀茂祭(葵祭)を「北祭」と称するのに対して、「南祭」と称される
 宇佐八幡宮にならって、放生川に魚鳥を放ち霊を慰められる
 明治維新以前の神仏習合のときには「放生会」とも称された

 平安時代、863年(皇紀1523)貞観5年に始まり、943年(皇紀1603)天慶6年以来、勅祭となる
 応仁の乱などで、約200年間中絶し、1679年(皇紀2339)延宝7年に復活している
 明治維新により、仏教色が一掃され、勅祭から神社の祭礼に変わる
 1949年(皇紀2609)昭和24年より、旧儀が復興されている

 午前2時、本殿で3基の御鳳輦に神霊が遷される
 午前3時、駕興丁神人(かよちょうじにん)に担がれた御鳳輦が、闇の中を松明に照らされ、弓、鉾、神宝と童子童女、
神人など総勢約500人の神幸列になって下山し、麓の仮宮の絹屋殿に着御する
 午前8時、放生川(大谷川)に魚、鳩が放たれる放生行事が行われる
 午前9時、4人の童子により「胡蝶の舞」が舞われる
 夕刻、御鳳輦が本殿に還幸する

 <後朝祭> 9月16日
 <裏千家献茶祭> 10月上旬
 <石清水社祭 > 10月15日
 <神嘗奉祝祭・神嘗祭遥拝> 10月17日
 <初穂田 抜穂祭> 10月下旬
 <厄除開運交通安全祈願祭 > 11月19日
 <新嘗祭> 11月23日
 <御誕辰祭・御神楽> 12月14日
 <八幡御神矢・神符・守札遷霊祭> 12月冬至
 <天長祭 > 12月23日
 <年越大祓式・除夜祭> 12月31日

【その他】

 <裏鬼門>
 男山の地は、都の裏鬼門(南西の方角)にあたり、鬼門(北東の方角)に位置する延暦寺とともに都の守護、
国家鎮護の社とされた
 鬼門封じのため、社殿の石垣の東北の角が切りとられている

 <流れ左三つ巴紋>
 石清水八幡宮の神紋
 本殿の彫刻や軒瓦など各所にあり、尾が長い文様ほど古いとされる
 幣殿の蟇股には4つの巴紋の彫刻があるが、
 1つだけ、社殿がまだ未完成であり、今後も発展を遂げるという祈願と縁起が込められて右巴があるといわれる

 <橘の神紋>
 「流れ左三つ巴紋」とともに石清水八幡宮の神紋
 石清水八幡宮を宇佐八幡宮から勧請した行教の家紋が橘であることと、
 創建時の六宇宝殿を建立したのが木工寮権允 橘良基であったことに由来する

 <徒然草>
 徒然草第52段「仁和寺のある法師」
 仁和寺の老僧が「一生に一度は石清水八幡宮へ行きたい」との念願が叶って参拝に出向いた
 男山のふもとにある高良社や極楽寺などを参拝して、そこが石清水八幡宮の本宮だと思い込んでしまい
山には登らずに帰ってしまった
 そして、仲間たちに「評判以上の尊い神社だった、参拝者の人たちが、みんな山に登って行っており、
山の上に何があったのか気になったけれども、神さんに参拝するのが目的だったので観光はせずに帰ってきた」と話す
 「どんな小さなことをするにも案内人が必要である」という故事

 <走井餅>
 歌川広重の「東海道五十三次」にも登場する大津名物
 明治時代末期から表参道で売られる名物菓子

 <全国八幡宮連合>
 全国の八幡大神を祀る神社でつくる全国八幡宮連合の総本部が石清水八幡宮に置かれている

 <八幡山>
 祇園祭の山鉾の一つ
 石清水八幡宮が祀られ、総金箔の社殿に、鳥居の笠木の上には、二羽の鳩が向かい合ってとまっている

 <松花堂昭乗>
 「寛永の三筆」と称される僧侶
 1600年(皇紀2260)慶長5年
 17歳の時、瀧本坊実乗のもとで剃髪をして社僧となる
 晩年のために中腹の住坊 泉坊の一隅に方丈を建てて「松花堂」と称した
 <室町3代将軍 足利義満>
 足利義満の母親は、石清水別当の娘

 <石清水寺>
 明治維新まであった石清水八幡宮の神宮寺
 男山の中腹にある石清水社の泉殿に湧き出している霊泉「石清水」のほとりで本尊 薬師如来を祀っていたといわれる
 山頂に石清水八幡宮が創建されたとき、天台宗の護国寺となり、神宮寺として全山を統括された
 伽藍は、上院(山上)と下院(宿院)(山麓)に分けられていた
 薬師堂(金堂)、開山堂などが建ち並び、麓(現在の頓宮あたり)には極楽寺も建立された
 境内の土中八方には、仏具(輪宝、独鈷杵など)を埋められたといわれる

 <男山四十八坊>
 現在の参道の周辺には、7つの谷(東谷道、西谷道、南谷道、北谷道、中谷道、湯ノ谷道、祓谷道)があり、
 江戸時代までは男山四十八坊といわれる宿坊、寺院、堂塔、僧房が建ち並んでいた
 明治維新の廃仏毀釈により、宿坊の土地も上知となり、宿坊のほとんどの建物は徹底的に破客されるか、
鳥羽・伏見の戦いで焼失した

 <善法律寺>
 石清水八幡宮の法務寺院
 石清水寺の本宮に祀られていた僧形の八幡大菩薩の神像が引き取られ、祀られている

 <和泉式部>
 平安時代の歌人で中古三十六歌仙の一人
 娘の小式部内侍に先立たれ、無常感から女官2人とともに播州 書写山の天台僧 性空を訪ね、
 「阿弥陀如来の化身、石清水八幡宮の八幡大菩薩が女人往生できる」と告げられる
 和泉式部が、石清水八幡宮で7日7夜の籠りをすると、夢に八幡大菩薩が現れ、
「誓願寺の阿弥陀如来は一切衆生を極楽へと導くので誓願寺で祈るよう」にと告げられたといわれる

 <離宮八幡宮>
 石清水八幡宮の元社にあたる神社

【アクセス】

 京阪電車 八幡市駅より男山ケーブル 男山山上駅 徒歩5分