auto-n8mFS2.jpg

船岡山
船岡山(ふなおかやま)は、京都の北郊、紫野(船岡山から大徳寺の西南一帯)に横たわる一丘陵
山頂からは、西陣や北山方面が一望できる景勝の地
山頂付近東側には、織田信長を祀る建勲神社、山頂付近西側には、船岡山公園がある
平安京遷都にあたり、四神相応が占われ、船岡山が北方の守護神「玄武」とされ、平安京の北の基点となる

船岡山:目次
青色文字をクリックで詳細へジャンプ

船岡山

【経緯】

 「日要集覧」によると
 飛鳥時代に、聖徳太子が、「船岡山が後に皇城の地になる」と予言したといわれる

 平安京の造営にあたり、船岡山が都の北の基点とされる

 平安時代
 景勝の地として王朝人の「禁野(しめの)」として遊宴・遊猟なども行われた
 「七野」の一つとされ、菜の花、山菜の名所でもあった
 邪気を祓うため、正月初子の日に野山に出て、小松や若菜を摘む「子の日の宴」という風習が行われていた

 「三代実録」貞観元年8月3日条によると
 858年(皇紀1518)天安2年、859年(皇紀1519)貞観元年
 陰陽寮により、五穀を食い荒らす虫害を祓う祭「董仲舒祭法」が行われた
 「蓋擇清浄之處(けだし清浄の所を選ぶなり)」と記されている

 「日本紀略」寛平8年閏正月6日条によると、
 896年(皇紀1556)寛平8年
 宇多天皇が、船岡山で鷹狩りをされている

 「日本紀略」寛和元年2月13日条によると
 985年(皇紀1645)寛和元年
 円融上皇が、華麗な「子の日遊び」を行われた

 「日本紀略」正暦5年6月27日条によると
 994年(皇紀1654)正暦5年
 疫病が流行し、疫病退散のための御霊会が行われ、船岡山山頂に木工寮 修理職(しゆりしき)の作った神輿二基に
素戔嗚尊の神霊をこめて、船岡山に安置された

 船岡山の周辺に、淳和天皇の「紫野院」、円融天皇の「円融院」、賀茂社の斎院などが置かれた

 船岡山から蓮台野一帯にかけては葬送の地となり、船岡山の南西に蓮台野火葬場(千本火葬場)が置かれていた

 1025年(皇紀1685)万寿2年
 「栄華物語」によると、三條天皇后娘子を「雲林院ノ西院ノ戌(西北)」において火葬したとされる

 1068年(皇紀1728)治暦4年
 後冷泉天皇が「船岡ノ西北ノ原」で火葬された

 その後、多くの皇室がこの地で火葬にされた
 明治時代に他所へ移されるまで天皇陵や墓地などがあった

 1156年(皇紀1816)保元元年 保元の乱
 敗北した源為義とその子供たちが、船岡山で処刑される

 1467年(皇紀2127)応仁元年 応仁の乱
 西軍を率いる山名宗全の軍事拠点の一つとなり、備前国守護の山名教之や丹後国守護の一色義直らが船岡山に
船岡山城を建築して立て籠もった
 西軍の陣地となった船岡山を含む一帯は、それ以来、「西陣」と称されるようになる

 1468年(皇紀2128)応仁2年
 東軍の細川勝元が、西軍の留守をねらって船岡山城を攻略し落城させた

 1511年(皇紀2171)永正8年 船岡山合戦(船岡山永正の戦い)
 船岡山から大徳寺・今宮一帯に布陣する足利義澄・細川澄元の一万余騎の軍勢と、
丹波より長坂口を経て京都へ攻め寄せた足利義植を擁する大内義興・細川高国等の軍勢三万余騎とが、
惣領制をめぐって船岡山を中心に戦い、細川澄元勢は三千余人の戦死傷者を出して敗退する

 織田信長の死後、豊臣秀吉が正親町天皇の勅許を受け、船岡山に織田信長の廟を建設する
 豊臣秀吉は、船岡山を古渓和尚に寄達し、山上に天正寺を建立しようとするが実現しなかった

 1869年(皇紀2529)明治2年
 明治天皇の宣下により、改めて船岡山に信長を祭る神社が作られることとなる

 1875年(皇紀2535)明治8年
 船岡山の中腹に建勲神社が創設される

 1880年(皇紀2540)明治13年
 建勲神社が船岡山の東麓に遷される

 1910年(皇紀2570)明治43年
 建勲神社が、現在の山上に遷される

 1931年(皇紀2591)昭和6年7月14日
 京都市の都市計画により、山全域が風致地区に指定され、「船岡山公園」として市民の憩いの場となるように整備される

 1968年(皇紀2628)昭和43年2月15日
 国の史跡に指定される

 1995年(皇紀2655)平成7年3月27日
 京都府により、「京都の自然200選」に指定されている

【見所】

建勲神社

 祭神:織田信長、織田信忠
 山頂付近東側にある

 <船岡山公園>
 山頂付近西側には、小さなグランド、小さな音楽公会堂などもある

 <石標「史跡 船岡山」>
 南参道の中腹にある

 <石碑「応仁永正戦跡」>
 船岡山公園側の中腹にある

 <塹壕跡>
 中腹に、かつての山城の塹壕跡の300mほどの空堀が残っている

 <磐座(いわくら)>
 山頂に、かつての祭祀の場で、神さんが降臨する岩が残っている

 <三等三角点>
 山頂にある

【文学】

 <「枕草子」231段>
 清少納言は、「丘は船岡、片岡、鞆岡」と讃えた

 <元輔家集>
 清原元輔は「船岡の若菜つみつつ君がため子の日の松の千代をおくらむ」と歌った

 <「古今和歌六帖(こきんわかろくじょう)」>
 「舟岡のともべに立てる白雲の立分かるるも哀とぞ思ふ」

 <「今昔物語」>
 邪気を祓うために、正月初子の日に野山に出て、小松や若菜を摘む「子の日の宴」という風習が行われていた
 円融天皇が譲位の後、船岡山の麓で、子の日の遊びをされたことが記されており、
 船岡の北面の小松が所々に群生する中に、遣水をやり、石を立てて砂を敷き、唐錦の平張りを立て、
簾をかけて遊宴されたとある

 <「徒然草」137段>
 「(都の死者を)鳥部野、舟岡、さらぬ野山にも、送る数多かる日はあれど、送らぬ日はなし」と葬送地として描かれている

 <「興津弥五右衛門の遺書」>
 森鴎外の小説
 主人公の興津弥五右衛門は、戦国時代・江戸時代前期の武将 細川三斎忠興の重臣で、長崎に遣わされ、
舶来した香木の伽羅を手に入れるように命じられる
 が、同じく香木を調達に来ていた仙台藩 伊達政宗の家臣と争いとなり、相手を討ってしまう
 五右衛門は、忠興に許されるが、忠興の三周忌を待って、船岡山の麓で後を追い殉死した

【その他】

名前の由来

かつて山の東と南は断崖で、東麓には大池があり、山の東端が地中に突き出ていて、海に突き出した船先と見えたことから「船岡山」と名付けられたといわれる
この池は、淳和天皇の離宮紫野院(雲林院)に取り入れられ、後には、梶井宮御所の苑池にもなった

 <聖徳太子>
 「日要集覧」によると、飛鳥時代に聖徳太子は、船岡山が後に皇城の地になると予言したといわれる

玄武

平安京遷都にあたり、四神相応が占われ、船岡山が北方の守護神「玄武」とされ、平安京の北の基点となる
「大地の生気がほとばしり出る地 玄武の小山」とされ、船岡山の真南に大極殿が置かれ、そこから南に向かって朱雀大路が造られた

 <御霊会>
 「日本紀略」によると、
 994年(皇紀1654)正暦5年
 疫病が流行し、疫病退散のための御霊会が行われ、木工寮(もくよう)修理職(しゆりしき)の作った神輿二基に
素戔嗚尊の神霊をこめて、船岡山に安置された
 都の人々は船岡山に登り、傘に風流を施して、囃しに併せて踊ったといわれる
 その後、人々の人形(ひとがた)を乗せた神輿が、難波江の海に流されたといわれる
 これが、紫野御霊会、今宮祭、出雲路御霊堂などの由来とされる

 <子の日の宴>
 古代中国においては、正月初子の日に岡にのぼって四方を望むと、陰陽の静気を得、憂いを除くといわれ、
 また、年の初めに松の実をたペると邪気を祓うとされていた
 この風習が日本にも伝わり、平安時代には、正月初子の日に野山に出て、小松や若菜を摘む宴遊が行われていた

 <七野(洛北七野)>
 平安時代
 景勝の地として王朝人の「禁野(しめの)」として遊宴・遊猟なども行われた
 「七野」の一つとされ、菜の花、山菜の名所でもあった

 <船岡山城>
 船岡山は、軍事的要衝として、度々戦場ともなった
 応仁の乱では、西軍の山名宗全方の軍事拠点の一つとなり、城が築かれた

 <天正寺>
 豊臣秀吉は、2体の織田信長の木像を造らせ、一体を焼きその灰を、新しく建立した大徳寺総見院に埋め菩提寺とした
 船岡山と大徳寺をつなぐ長廊を造り、船岡山東麓に「天正寺」と称するもう一つの菩提寺を建立し、
そこにもう一体の信長木像を安置する予定だった
 1584年(皇紀2244)天正12年末
 正親町天皇から、元号寺院として「天正寺」の寺号を得て、大徳寺の古渓禅師を開山とする予定であった
 だが、石田三成により、計画が頓挫し、古渓禅師は秀吉により博多に配流された
 もう一体の信長木像は、現在、総見院に安置されている

 <原生林>
 船岡山の樹々は種類が多く、帰化植物がほとんど入り込んでいない貴重な森林となっている

 <堀川>
 堀川は、船岡山東麓を源流にして、ほぼ京都の中央部を南北に貫流する川

【アクセス】

 市バス 船岡山 または 建勲神社前 徒歩約5分