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金閣寺(きんかくじ)
京都市街地の北西部にある、相国寺の山外塔頭寺院
金箔を貼った3層の舎利殿「金閣(きんかく)」があることで通称が一般的で、正式名称は「鹿苑寺(ろくおんじ)」と称する

金閣寺 四季

金閣寺_四季の写真集

金閣寺:目次
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基本情報

正式名称:鹿苑寺(ろくおんじ)
所在地:京都市北区金閣寺町
臨済宗相国寺の山外塔頭
山号:北山(ほくざん)
本尊:聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつざぞう)
創建:足利義満(室町幕府の3代将軍)、足利義持
開山:夢窓疎石(むそうそせき)※臨済宗の禅僧
通称:金閣寺
世界遺産(古都京都の文化財)の一つ

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世界文化遺産表示

説明

鹿苑寺案内図

金閣寺の起源

現在、金閣寺こと鹿苑寺がある場所には西園寺(さいおんじ)という寺院が建っていました。
西園寺は、 鎌倉 時代に藤原氏の公卿・西園寺公経(さいおんじ きみつね)が建立したもの。しかし、鎌倉幕府が滅亡してからは荒廃。
室町時代になり、室町幕府3代目将軍の足利義満が西園寺の土地を譲り受けます
義満は北山殿(北山第)と呼ぶ大規模な邸宅を造営しました。
北山殿は邸宅でも非常に規模が大きく、御所に並ぶほどでした。
そして、義満は北山殿で政治の執務を行うように。
義満が死去すると、遺言により北山殿は禅寺に生まれ変わります。
北山殿は現在の舎利殿以外は解体されました。
義満の法号である「鹿苑院殿」に由来して「鹿苑寺」と名乗ったのです。
応仁の乱が勃発すると、鹿苑寺は西軍の陣となりました。
戦火により多くの建物が焼失。しかし、江戸時代に再建されます。
舎利殿は1649年(慶安2年)に修理が実施されました。
[check]「都名所図会」絵付きの名所案内によれば
江戸時代以前は、金閣の周囲はすべて池で「芳徳(天鏡閣?)」という御所と橋でつながっていた

経緯

鎌倉時代

この地に、西園寺公経(さいおんじきんつね)(藤原公経)が、西園寺と邸宅を建てて住んでいた。代々西園寺家の所有であったが、次第に修理がされずに荒廃する

室町時代

1397年(皇紀2057)応永4年
足利義満が、河内国の領地と交換に西園寺を譲り受け、改築と新築によって「北山殿」を造営したのが由来
その規模は御所に匹敵し、政治中枢の全てが集約され一切の政務が行われていた

足利義満の没後

足利義持によって舎利殿を残して解体され禅寺とし「鹿苑寺(ろくおんじ)」と称される
夢窓疎石が勧請され開山する
寺名の「鹿苑寺(ろくおんじ)」は、足利義満の法号「鹿苑院殿」から付けられた
通称の「金閣」は、漆地に金箔を押した三層の舎利殿(しゃりでん)のことを称する
8代将軍 足利義政は祖父 足利義満を敬い、同様に銀閣を建てた
応仁の乱により荒廃するが、豊臣秀吉や徳川家康に帰依された西笑承兌(せいしょうじょうだい)が住職となり復興する

  • 1624年(皇紀2284)元和10年
    徳川家康に帰依された、西笑承兌の弟子 鳳林承章が鹿苑寺第四世となり、庭園や金閣の本格的な修復を行う
  • 1950年(皇紀2610)昭和25年
    徒弟 林承賢(当時21歳)に放火されて炎上し、林承賢は炎の中で自殺未遂を図った
    創建時の金閣が焼失し、足利義満像(国宝)も焼失する
  • 1955年(皇紀2615)昭和30年
    金閣が再建され現在に至る
    初層の法水院(ほすいいん)は、公家風の寝殿造で阿弥陀堂
    二層目の潮音洞(ちょうおんどう)は、和様の住宅風
    三層目の究竟頂(くつきょうちょう)は、禅宗様の仏堂風で仏舎利が置かれる
    屋上には鳳凰が飾られている
    天井板は「楠天井の一枚板」であったと伝えられるが、焼失のため不明となる
  • 1987年(皇紀2647)昭和62年
    漆の塗り替え、金箔の張替え、天井画と義満像の復元などが行われた
  • 1994年(皇紀2654)平成6年
    世界遺産(古都京都の文化財)に登録される

拝観順_ポイント

拝観受付前に菩提樹がある

舟形一文字蹲踞

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庫裏の鬼瓦:近づいて下から見ると鬼の目は光って見える

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舎利殿前の池、手前から記念写真

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陸舟の松(りくしゅうのまつ)

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方丈の北側前に立つ五葉の松
足利義満遺愛の盆栽を移して帆掛けて舟の形に仕立てたものといわれる
樹齢は約600年
「陸舟の松(おかふねのまつ)」とも称される 京都三松の一つ
この「陸舟の松」は、もともと義満公の盆栽でした。
それを地面に植え替えて、舟の形に仕立てた松です。
この松の先は「西」を向いています。
義満はこの舟に乗って、西方浄土(極楽浄土)を目指したかったようです。
義満が植えたものですから、樹齢はなんと!600年以上あると云われております。
義満の時代には小さかった松は見事に成長して、しかも衰えをみせずに青々としています。

方丈_江戸時代中期の建物

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「聖観世音菩薩坐像(しょうかんぜおんぼさつざぞう)」は、鹿苑寺(金閣寺)の御本尊として祀られており、「方丈の床」より一段高くなっている「須弥段(しゅみだん)」に安置されています。
「聖観世音菩薩坐像」の脇には「梵天(ぼんてん)」と「帝尺天(たいしゃくてん)」が脇待として安置されており、これらの2仏を従えています。
聖観世音菩薩は、世の中をいつも見ており、救いの声を聞いて人々を助けるという観音菩薩
人々を救う時に、その相手によって33通りの姿に変化し、教えを説くと言われています。
これは、救いを乞う者に合わせて姿形を変えて、救済するからです。

舎利殿 金閣

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宝形造り(ほうぎょうづくり)柿葺(こけらぶき)の三層楼閣
銀閣(慈照寺)、飛雲閣(西本願寺)とともに「京の三閣」と称される
3層構造で、それぞれの階の様式が異なっているのが特徴。
二層と三層に、漆の上から純金の箔が張られている
屋根は椹(さわら)の薄い板を何枚も重ねた柿葺(こけらぶき)
屋根の上には中国で縁起の良い鳥といわれる鳳凰(ほうおう)が輝く
一層:寝殿造で法水院(ほっすいいん)寝殿造
壇上中央に宝冠釈迦如来坐像、向かって左に法体の足利義満坐像を安置
二層:武家造の仏間風、潮音洞(ちょうおんどう)
須弥壇上に観音菩薩坐像(岩屋観音)を安置し、須弥壇周囲には四天王像が立つ。壁と床面は黒漆塗とし、天井には飛天像を描く
三層:中国風の禅宗仏殿造で究竟頂(きっきょうちょう)
仏舎利を安置
天井や壁を含め内外ともに金箔張りで、縁と内部の床面のみ黒漆塗とする
※昭和62年:漆の塗り替え、金箔の張替え(7億4千万円)

室町時代の代表建物

  • 1950年(皇紀2610)昭和25年:徒弟 林承賢(当時21歳)に放火されて焼失
  • 1955年(皇紀2615)昭和30年:再建されるが、国宝指定は取り消される
  • 1987年(皇紀2647)昭和62年:漆の塗り替え、金箔の張替え(7億4千万円)、天井画と足利義満像の復元などが行われた

池泉回遊式庭園(国の特別史跡、特別名勝)

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鳳林承章が、荒廃した金閣を復興し、池泉庭を修復した
境内約132,000㎡(約4万坪)の内、92,400㎡(約2万8千坪)が鹿苑寺庭園として特別名勝、特別史跡に指定されている 回遊式庭園

鏡湖池(きょうこち)

鏡湖池は、浄土世界にある七宝の池を模してつくられたといわれる
庭園の中心で約6,600㎡(約2千坪)
西から大きく出島が突き出し、池内に九山八海石(くせんはつかいせき)などの名石を配する
葦原島(あしはらじま)・鶴島・亀島など大小の島々があり、畠山石・赤松石・細川石などの奇岩名石が数多く置かれている

金閣を映しだす池
金閣を池に映し出せるように池の水はあえて濁らせている(粘土質の水を作り、鯉が泳ぐことで水が濁る自然現象を用いている)

<大書院(おおじょいん)>
 方丈北側に建つ江戸時代中期の建物
 江戸時代中期の大画家 伊藤若冲の障壁画(襖絵)「月夜の芭蕉図」「葡萄図」「鶏図」「松に鶴図」で飾られていた
 1984年(皇紀2644)昭和59年
 相国寺の承天閣美術館に移管される
 1993年(皇紀2653)平成5年
 現代日本画家の加藤東一により、「淡墨桜図(うすずみさくらず)」「大杉図」「日輪図」「月輪図」「鵜之図」
「臥竜梅図」「千鳥図」「若竹図」等が描かれている

銀河泉(ぎんがせん)

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 足利義満が、お茶の水に使ったといわれる
 現在も、清冽な清水が湧き出している

巌下水(がんかすい)

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 足利義満が、手洗いに用いたといわれている

竜門滝

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高さ約2.3mの一段落
龍門の滝を鯉が登りきると龍に化するといわれる中国の故事「登竜門」にちなんで
滝壷の所に斜めに傾いた鯉魚石(りぎょせき)が置かれている

  • 日本の竜
    長谷川等伯による善女竜王像(安土桃山時代、七尾美術館蔵)
    仏教では竜は八大竜王なども含めて仏法を守護する天竜八部衆のひとつとされ、恵みの雨をもたらす水神のような存在でもある。仏教の竜は本来インドのナーガであって、中国の竜とは形態の異なるものであるが、中国では竜と漢訳され、中国古来の竜と混同ないし同一視されるようになり、中国風の竜のイメージに変容した。日本にも飛鳥時代以降、中国文化の影響を受けた仏教の竜が伝わっている。
  • 竜神
    竜神は竜王、竜宮の神、竜宮様とも呼ばれ、水を司る水神として日本各地で祀られる。竜神が棲むとされる沼や淵で行われる雨乞いは全国的にみられる。漁村では海神とされ、豊漁を祈願する竜神祭が行われる。場所によっては竜宮から魚がもたらされるという言い伝えもある。一般に、日本の竜神信仰の基層には蛇神信仰があると想定されている。
  • 登竜門【とうりゅうもん】
    中国の《後漢書》李膺(りよう)伝に,黄河の上流に竜門という激流があり,その下に多くのコイが集まり,ほとんどは急流を登れないが,もし登ったら竜になる,と伝える。転じて立身出世のための関門を意味する。

安民沢(あんみんたく)

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「雨賜沢」「望雲沢」とも称される池
日照りが続いても涸れないので「雨乞いの場」ともされていた
池中の小島には、「白蛇塚」という五輪の石塔がある
西園寺家の鎮守ともいわれる

日本の七福神である弁財天さま。七福神の中で唯一の女性神であります。
水と豊穣の神様。弁財天は、 穀物や果実を実らせ、財をもたらしてくれるといわれています。
その弁財天の眷属(お遣い)が、白蛇様だと言われております。
蛇は家や蔵に住み着く、穀物を食べてしまうネズミを退治してくれ、財産(穀物や果実)を守ってくれることから、金運・財運の象徴とされてきました。
その中でも白蛇は、特に貴重な存在とされ神の使いとして、大切にされてきました。
白蛇は、弁財天様の化身ともいわれる

茶室 夕佳亭

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池庭の北方にある、三畳台目の茶室
金森宗和好みの数奇屋造
夕日に映える金閣の景観がすばらしいこと、殊(コト)に佳(ヨ)いということからこの名が付けられました。
 夕佳亭に使われている「南天の床柱」は、とても貴重な物で、それを探し求めるだけでも多くの費用がかかったと言われ、金閣をしのぐとも伝わっています。
右側の「三角の萩の違棚(ちがいだな)」があり、茶室中央には「古木の鴬宿梅(おうしゅくばい)」が配されていて、古今の名席として高い評価を受けています。
 修学院を造営した後水尾上皇のために、池泉庭を修復した鳳林承章(ホウリンジョウショウ)が、金森宗和(茶道家)に造らせたといわれる

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夕佳亭の前には石造りの「貴人榻」(きじんとう)がある

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夕佳亭から見た舎利殿

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安土桃山時代から江戸時代にかけて大徳寺を本拠に京都の寺社、武家、公家諸侯と幅広く交流した金森宗和が関わった茶室である。
平成になって大修理された折古図が見つかり、宗和建築当初の原形に近い形に復元された。三畳敷の母屋に二畳敷の「鳳棲楼(ほうせいろう)」が連なっている。

茶室のにじり口
にじり口とは、小間(4畳半以下の茶室)の入り口の名称です。
にじり口を茶室に取り入れたのは、千利休。千利休が生きた戦国時代は、主従関係が強い時代でしたが、茶室の中ではすべての人が平等ということを示すために入り口を低くしました。どんなに身分が高い人でも、刀を外し頭を下げなくては茶室に入ることができません。
茶室の構造HP

不動堂

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本尊は秘仏の石不動明王
弘法大師の作といわれる

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節分と8月16日に開扉法要(かいひほうよう)が行われる
目にご利益

その他_伽藍詳細

<総門>
<唐門>
<庫裏> 禅宗特有の様式の建物
 明応・文亀年間(1492年~1504年)の建物
<鐘楼> 西園寺家が所有していたもの
 鎌倉時代の作といわれる
<櫟樫(いちいがし)>
 江戸時代初期の伽藍再整備のときに殖栽されたものといわれる
 イチガシは、照葉樹林を構成する常緑高木の一つ
 京都で生育しているのは珍しいとされる
 1983年(皇紀2643)昭和58年
 京都市指定天然記念物に指定される
<榊雲(しんうん)>
 金閣の北に建つ古廟
 鹿苑寺の鎮守として春日明神(春日大神)が祀られている
<虎渓橋(こけいきょう)>
 竜門滝の左側山畔の石段にかかる小さな石橋
<金閣寺垣>
 虎渓橋の両側の低い竹垣
 小竹垣の代表的なもの
<独鈷水(どっこすい)> 不動堂の後にある井戸
 古い石組みの子庭になっている
<茶所> 夕佳亭の横に建つ
<胡蝶侘(こちょうわびすけ)>
 方丈前庭に立つ椿の一種
 後水尾天皇の御手植えといわれる

寺宝

<後水尾天皇宸筆>
 後水尾天皇が、鳳林承章の希望によって詠まれた
 「とはゝやなきぬ笹岡のあきの色を 来て見よとこそ鹿もなくらめ」

<相輪の破片>
 足利義満が建立した七重塔「北山大塔」のものとみられる青銅製の飾り「相輪」の破片
 北山大塔は、完成前の1416年(皇紀2076)応永23年に落雷で焼けたが、これまで遺物が見つからず幻の塔とされてきた
 塔の土台はまだ確認されていない

 2016年(皇紀2676)平成28年
 金閣から約200m東の境内の北東隅にある室町時代の溝で、相輪の破片3個が見つかった
 相輪(そうりん)は、木造の塔の最上部から突き出た青銅製の細長い装飾部分
 破片は、輪が9つ重なる九輪の一部とみられる
 最大の破片は、幅37.4cm、高さ24.6cmで、厚さ1.5cm、重さ約8.2kg
 復元すると相輪は直径約2.4mになることから、巨大な塔だったと推定できるという
 現存する木造の塔の中で最も高い、高さ55mの東寺の五重塔の宝輪は直径1.6m
 破片には金メッキが施されていたことも分かった
 景徐周麟(けいじょしゅうりん)が書いた文献「翰林葫蘆集(かんりんころしゅう)」には「高さは360尺(約109m)」と記されていた

 足利義満は1339年(皇紀1999)延元4年/暦応2年、相国寺に七重大塔を建立した
 七重大塔は高さ約109mとされ、国内で最も高い木造建築物だったという
 七重大塔が落雷で焼失したため、住んでいた北山殿(現在の金閣寺)で、1404年(皇紀2064)応永11年から北山大塔の建築を始めた
 塔の工事を始めたことを示す「立柱の儀」を行った記録が残っている
 1408年(皇紀2068)応永15年頃には金閣もあったという
 室町時代の皇族の看聞日記には「北山大塔は七重で、落雷で燃え、僧らが懸命に消火したが焼失した」などとあるが、
場所や規模は記されていない

金閣寺の祭事

<弓祭> 2月10日
舎利殿で、北野天満宮の神職と金閣寺の僧侶が、読経や祝詞を奏上し、梅の献花などが行われ、北野天満宮の神職が、舎利殿に向かって鏡湖池へ仏前に供えられていた5本の矢を放ち天下太平を祈願する神事
北野天満宮に祀られている菅原道真は、弓の名手でもあり、金閣寺を創建した足利義満や歴代の住職が、篤く北野天満宮を信仰していたといわれる
 2006年(皇紀2666)平成18年2月10日
 翌年に足利義満の600年忌を迎えるにあたり、約300年ぶりに弓祭神事が復活される

その他

鏡石:不思議な巨岩

紙屋川の北(金閣寺の北側)に昔、ピカピカに光った人も映すくらいの巨岩ですが、人の五臓(心臓、肝臓…)も映す岩でした。しかし、病に侵されているときは、その人の外装のみ映しださせる岩といわれた

<きぬかけの路>
 金閣寺から衣笠山に沿って龍安寺を通り、仁和寺を過ぎて、周山街道と合流する観光道路
 美観風致地区に指定されていて、四季を通じて美しい情景が楽しめる

<近代京都文学 京都ゆかりの著書>
 「帰郷」    大佛次郎
 「金閣寺」  三島由紀夫
 「梅雨金閣」 佐藤左千夫

<歴史的風土保存区域>
 金閣寺特別保存地区 約110ha

<ミシュラン観光ガイドブック>
 フランスのタイヤメーカのミシュラン社が発行する観光ガイドブックにおいて、三つ星の評価がされている