銀閣寺/P

銀閣寺
観光時間:30~40分
銀閣寺(ぎんかくじ)は、今出川通の東端にある寺院
東山文化を代表する寺院
足利義政が造営した楼閣「観音殿」を「銀閣」と通称され、寺院全体が「銀閣寺」と通称されるようになる
「慈照寺(じしょうじ)」は、足利義政の法号にちなむ
秋には紅葉の名所
銀閣寺:目次
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基本情報
正式名称:慈照寺(じしょうじ)
所在地:京都市左京区銀閣寺町
臨済宗相国寺派の寺院
相国寺の境外塔頭
山号:東山(とうざん)
本尊:釈迦如来
開基:足利義政(室町幕府8代将軍)
開山:夢窓疎石(むそうそせき)
世界遺産(古都京都の文化財)の一つ
足利義政は、なぜ銀閣寺を立てたのか
- 西芳寺(苔寺)を研究し、苔寺を再現した
西芳寺はお墓があり、同じ条件で、嵯峨野、岩倉などを探したが、最終に浄土寺が埋葬地として選び - 金閣寺の反対側に選んだ
足利義政は、政治の権力はもちろん、中国の貿易でお金儲けもうまかった。
また文化、芸術の保護者、食文化も
- 芸術:東求堂は、日本の文化の出発点といわれている
日本の四畳半(同仁斎)はここから始まる。
それまでは、板敷きで必要な部分だけ畳敷きを全て畳敷きにした。
そして付書院や違い棚、掛け軸に「ふすま窓から見る自然の風景」を採用
そこから見る義政の「美の集大成」とも言えるが銀閣寺 - 食文化も広めた:今までの「焼く、煮る」から、この時代から油が入りを使った「炒める、揚げる」、そして「出汁」も広めた
日本料理の原点も義政から始まった
拝観順_見どころポイント
慈照寺の庭園が国の特別史跡、特別名勝に、旧境内が国の史跡に指定されている
創建当時の伽藍は、足利義政の死後、各寺院から強引に集められてきた庭の石や建材が取り返され荒廃し、観音殿(銀閣)と東求堂のみが残る
慈照寺の総門

世界文化遺産銅板

慈照寺_案内板
銀閣寺垣(ぎんかくじがき)
慈照寺の総門から中門まで、入口の約50mの参道の両側の椿垣(つばきがき)
- 建仁寺垣を変形させた簡素なもの
- 石垣の上に作られた「垣根の傑作といわれている」
- ツバキの木は、長寿で萠芽性に優れており、生垣の木として用いられる
防御をかねた外界との区切りとして設けられたと思われるが、喧噪の世俗から、東山殿に現出しようとした浄土世界とをつなぐもの - 石垣は、入り口の高さから中門までの50m先にかけて低くなり、遠近法で長く見えるようにしてある
※生垣(いけがき)とは、植物で作った垣根のこと。慈照寺の椿垣(つばきがき)といわれている
「観音殿」:銀閣と呼ばれる建物
2層構造になっており、足利義満が創建した「金閣」と対比されて「銀閣」と称される
初層の心空殿(しんくうでん)は、和様の住宅風
上層の潮音閣(ちょうおんかく)は、観音菩薩像を安置する禅宗様仏堂
書院造が取り込まれており、唯一現存する東山文化の楼閣庭園建築の代表的建築物
煌びやかな金閣寺に対し、わび・寂びを感じられる銀閣寺を好む人も多くいます。
※当初は外、内面とも黒漆塗りだったとか?
庭には多くの名石、名木が配され、建材にも贅を尽くされている
重層方形造で、平面的には長方形で正面8.2m、奥行7.0m
- なぜ銀閣寺?
金閣寺は足利義満が創建した北山山荘です。京都楼閣建築の代表として現在もその圧倒的な存在感を示す金閣寺。その孫である足利義政は金閣寺を参考にして東山山荘を造りました。そのため、金閣寺に対して銀閣寺という呼び名になったというのが一般的な説です。 - 東向きの宝形造り柿葺(こけらぶき)二層の楼閣
- 山荘東山殿の池庭に建てられた建物の一つの遺構
- 足利義政の祖父である3代将軍 足利義満が創建した「金閣」と対比されて「銀閣」と称される
- 鹿苑寺の舎利殿(しゃりでん)(金閣)と、西芳寺の瑠璃殿(るりでん)を踏襲されている
「銀紗灘」「向月台」

- 向月台(こうげつだい)は砂をきれいに円錐形に積み上げたもので、富士山を表していると言われています。
高さは約1.8m、底の部分の直径は約3m、上部の直径は約1.2mと大きなものです。 - 銀紗灘(ぎんしゃだん)は向月台の周囲に広がる砂で作られた模様です。波を表していて、中国杭州にある世界遺産・西湖を模して作られたと言われています。
方丈前には、白砂を段形に盛り上げた「銀沙灘」や円錐形の「向月台」が作られている
銀沙灘は月の光を反射させるため、向月台はこの上に坐って東山に昇る月を待ったものといわれる
当初はなく、江戸時代に改修されたときに作られたものといわれる
「方丈」
方丈は本来、住職の住まいを意味しますが、銀閣寺では本堂を指します。
江戸時代中期の建立
黒瓦の立派な建物で、本尊の釈迦如来が安置されている
正面の額には「東山水上行(とうざんすいじょうこう)」が掲げられている、江戸時代の南宋画家の巨匠、与謝蕪村と池大雅が描いた襖絵が置かれています。方丈からは目の前に広がる銀沙灘や向月台、月待山の絶景を見ることができます。
本堂と東求堂の間に置かれる銀閣寺型手水鉢は、袈裟型手水鉢と称される
「東求堂」(とうぐうどう)国宝
三間半四方の小堂
■1486年(皇紀2146)文明18年の建立
足利義政時代は、浄土信仰を象徴するものとして、阿弥陀三尊を本尊とする持仏堂だった
東山殿造営当時の現存する遺構
法語の「東方の人、仏を念じて西方に生まれんことを求む」から「東求堂」と名付けられたといわれる
方形の大きさは3間半四方の建物で、池に面した南向き
正面左は、方2間の仏間で、阿弥陀如来像、義政像が安置されている
書院造の初期形態として貴重なもの
- 同仁斎(どうじんさい)
右奥の東北の四畳半の足利義政の書斎
北側の付書院(つけしょいん)と違い棚(ちがいだな)は、座敷飾として、現存最古の遺例
四畳半茶室の原型といわれる
「池泉回遊式庭園」
銀閣寺の観音殿前の錦鏡池(きんきょうち)を中心に作られた美しい庭園です。
作られた};と言われています。池には石橋がかかり、諸大名が献上した大内石や白鶴島などに見どころがあります。
足利義政の好みであった苔寺と呼ばれている京都・西芳寺の庭(夢窓疎石の作庭)を模して、直接作庭を指示したといわれる
足利義政の死後すぐに、足利義政が強奪してきた庭石や資材が取り返され荒廃する
<分界橋> 観音殿から錦鏡池に架かる石橋
<迎仙橋> 錦鏡池の浮島に渡る石橋
<白鶴島>
<浮石>
<仙桂橋> 白鶴島から山部山畔へ架かる石橋
<仙袖橋> 方丈前から白鶴島へ架かる石橋
<夢窓疎石坐禅石(そうそせきざぜんせき)> 錦鏡池の白鶴島の西手前に浮かぶ石
<大内石>
<濯錦橋> 洗月泉から山畔を通って観音殿へ戻るところの石橋
洗月泉 錦鏡池の南東端に落ちる滝、山部山畔から流れてくる水
枯山水庭園
東方山麓の室町時代の面影を残す庭園
1931年(皇紀2591)昭和6年に発掘される
<お茶の井>
下段の庭から東部の山腹を登ったところの湧水
足利義政が愛用したお茶の井跡で、現在でもお茶会などの飲料水として使用してされるほど水質が良い。泉辺の石組は当時の遺構そのままで、茶庭の蹲踞(つくばい)手水鉢(ちょうずばち)前の源流とされている
「展望所」
境内の東側の高台で、銀閣寺全体だけではなく京都市街まで見渡すことができます。
【経緯】
銀閣寺が建てられたのは?
■1409年 東山と呼ばれる地域に建てられ、当初はお寺ではなく山荘でした。そのため、銀閣寺は東山山荘と呼ばれていました。会所や常御所を始めとする建物がいくつも建ち並ぶ大掛かりな山荘でしたが、現在では銀閣と東求堂のみが残っています。
■1482年(皇紀2142)文明14年
室町幕府8代将軍 足利義政が、応仁の乱で焼失した浄土寺跡に東山山荘(東山殿)を造営し始める。東山殿の造営に8年間かけられる
■1483年(皇紀2143)文明15年
足利義政は、造営が始まった翌年に移り住む
当時、応仁の乱により荒廃しきった京都で、足利義政は、臨時の税を課し、夫役(ぶやく)(労役)を強要して東山殿の造営を進め、茶の湯や書画にふけっていた
■1489年(皇紀2149)長享3年
「銀閣」と称される「東山山荘観音殿」が上棟される
足利義政は、その完成を見ずに翌年死去する
■1490年(皇紀2150)延徳2年2月
足利義政の菩提を弔うため、相国寺の宝処周財(ほうしょししゅうざい)が入山して
夢窓疎石(むそうそせき)を勧請開山として、禅寺に改められる
戦国時代
足利義政の死後、各寺院から強引に集められてきた庭の石や建材が取り返されて荒廃する
■1558年(皇紀2218)永禄元年
兵火により、観音殿と東求堂を残して建物が焼失
江戸時代初期
■1639年(皇紀2299)寛永16年
修復され、現在の寺観が整えられる
前 関白 近衛前久の別荘になる
白近衛前久の死後は相国寺の末寺として再興されていく
■1952年(皇紀2612)昭和27年3月29日
庭園が、国の特別史跡、特別名勝に指定される
■1994年(皇紀2654)平成6年12月17日
世界遺産(古都京都の文化財)に登録される
【寺宝】
<絹本著色 春屋妙葩像(しゅんおくみょうはぞう)(重要文化財)>
【哲学の道】
若王子橋から北側、銀閣寺橋までの琵琶湖疏水沿いの堤が、遊歩道となっており「哲学の道」と称される
総門の石畳は,ハートの石がある 見つけると幸せになる
銀閣寺 牡蠣は 垣根の傑作と言われる
観音殿は 楼閣建築
義政の山荘が遺言で禅寺になる
座禅の部屋
同仁 祭 日本初めての四畳半
料理は日本料理で, 煮る,焼くから油が入り,
炒める
デジルのだし文化が始まる