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京都の故事・伝説
京都の故事は、時代や場所、登場人物などがあいまいな昔話風ではなく
歴史的事実といえるような具体的な場所や人物が登場する伝説が多く語り伝えられてきている

京都の故事・伝説:目次
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京都の七不思議

 京都には、多くの神社・寺院・各地に、昔から言い伝えられてきている七不思議が存在している

【故事】

<合槌稲荷>

 名剣を打つように勅命を受けた名匠 三条宗近の相槌をつとめた狐(稲荷大明神)の故事

<愛猫の報恩伝説(猫寺)>

 称念寺第3世 還誉上人のころ、松平家と疎遠となり荒廃していたが、
 ある名月の夜、帰宅した還誉上人が、愛猫が美姫に化身して舞っていたのを見て追い出してしまう
 数日後、その愛猫が、還誉上人の夢枕に現れ、松平家との復縁を告げ、上人に報恩し、称念寺を再興したといわれる

<明智戻り岩>

 亀岡市と大阪府池田を結ぶ国道423号(通称:摂丹街道)の法貴峠の旧道にある大きな岩
 明智光秀に係わる2つの伝承がある

<明智藪(あけちやぶ)>

 伏見区小栗栖(おぐるす)
 明智光秀の祟りにより、さまざまな異変が起こったといわれる竹薮(たけやぶ)

<明眼地蔵(あけめじぞう)(聞名寺)>

 平安時代
 時康親王(ときやすしんのう)(後の光孝天皇)が、眼の病を患い、医者も治療を諦めていたところ、
加茂の明神に眼病平癒の祈願を行うと、17日目の夜、夢の中に老翁が現れ、
「眼病を治したければ、地蔵菩薩を彫って守護仏としなさい」と告げられた
 仏師 慈覚大師に仏像を作らせ祀ったところ、時康親王の眼の病はすっかり良くなり、
第58代天皇にご即位することができたといわれる
 このことにより、眼病平癒のご利益があるといわれ「明眼地蔵」と称されるようになる

<雨乞い合戦>

 平安時代初期
 824年(皇紀1484)天長元年夏
 長期間雨が降らず大干ばつとなり、淳和天皇は、東寺の弘法大師 空海と、西寺の守敏大師(しゅびんたいし)に、
神泉苑での降雨祈祷を命じた法力合戦

<一条戻橋>

 一条通の堀川に架かる橋
 三善清行の蘇生や、渡辺綱と鬼女、陰陽師 安倍晴明の橋占など、多くの故事がある

<一文橋の人魂>

 日本で最初の有料橋である一文橋をお金を払わずに渡ろうとした者は、その場で橋守に斬り捨てられていた
 それらの人々は霊となり、夜な夜な「橋を渡してくれ」と人魂が飛んだといわれる

<苗塚>

 奈良時代中期
 天武天皇年間(672年~686年)
 現在の伏見区石田森の里にある夜、一夜で数尺(数m)の稲苗が積み上げられ、その上に白羽の矢あり、
 白髪の老翁が現れて、「この地に天照大見と大山咋神を鎮め祀れば都南方の守護とならん」と告げられる
 稲苗が積み上げられたところが「苗塚」と称される
 この故事にもとづき、天穂日命神社の由来の祠が創建されたといわれる

<丑の刻参り>

 「平家物語 剱の巻」によると
 ある公家の娘が、激しい嫉妬をして、鬼になることを願い貴船神社へ参拝する
 七日目に、貴船の神より、宇治川に21日間浸かれば鬼になれると神託を受ける
 娘は、髪を松脂で固めて五つの角を作り、顔には朱、身体に丹を塗り、頭に松明をつけた鉄輪をかぶって、両端に火をつけた松明を口にくわえて宇治川に浸かる
 娘は、念願通りに鬼になり、人を殺したという

<宇治川の亀石>

 宇治川にある亀のようなかたちをした大きい石
 豊臣秀吉が伏見城に宇治川の水を引き込むためのカモフラージュのために置いたなどといわれる

<牛若丸と弁慶>

 「京の五条の橋の上、大の男の弁慶が、長い長刀振りかざし、牛若めがけて、切リかかる・・・」と 牛若丸(うしわかまる)と弁慶(べんけい)の対決をうたった童話がある

<うなずきの弥陀(真如堂)>

 真如堂の本尊の阿弥陀如来立像(重要文化財)
 慈覚大師 円仁が、阿弥陀如来が完成し「修行者のための本尊となって下さい」と、眉の間に白毫を入れようとすると、
阿弥陀如来が頭を横に振られたので、
「それでは、山を下りて全ての人々の救済をして下さい。特に、女性をお守り下さい」と嘆願すると、うなずかれたといわれる
 洛陽六阿弥陀めぐりの一つ

<負別阿弥陀如来(おいわけあみだにょらい)(蓮光寺)>

 蓮光寺の本尊の阿弥陀如来像
 快慶が、東国の僧 覚明の依頼で作ったといわれ、快慶が、上出来の阿弥陀如来像と別れるのが辛く、
覚明を追いかけ、山科のあたりで追いつき再拝しようとしたところ、紫雲がたなびき、
阿弥陀如来像が光を放ち、自ら二体に分身したといわれる
 その一体を、快慶が持ち帰り蓮光寺の本尊としたといわれる
 もう一体は、仙台市泉区に現存し、「笈分如来(おいわけにょらい)」と称されて祀られている

<大江山の鬼伝説>

 大江山には3つの鬼退治の伝説が残っており、福知山市の大江山山麓にには鬼伝説をテーマとする博物館「日本の鬼の交流博物館」もある

  • 青葉山中にすむ陸耳御笠(くがみみのみかさ)という土蜘蛛と、日子坐王(ひこいますのきみ)の軍勢との戦いの伝説
  • 河守荘三上ヶ嶽(三上山)に集まっていた英胡・軽足・土熊などの悪鬼を、勅命をうけた麻呂子親王が、神仏の加護をうけ討った伝説
  • 酒呑童子を源頼光が退治した伝説(下記参照)

<小野篁の冥土通い>

 平安時代初期、宮廷官吏の小野篁(おののたかむら)が、毎晩、六道珍皇寺の井戸から冥土(あの世)へ通い、
閻魔大王(えんまだいおう)の補佐官として働いていたといわれる

<おかめ塚>

 大報恩寺 千本釈迦堂(国宝)の前、東側の大きな宝篋印塔
 本堂建立をした大工棟梁 長井飛騨守 高次の妻 阿亀(おかめ)の内助の功をしのぶ遺跡
 本堂の造営のための貴重な柱の寸法を誤って切ってしまい途方に暮れていた高次を見た妻が、一計を案じ見事に本堂を落成させることができた
 しかし、上棟式の前日に妻は「女の入れ知恵があったと世間にばれたら夫の恥」と自殺してしまった
 高次は、妻の心情にうたれ、上棟式に御幣におかめの面を飾り冥福を祈ったという故事に由来する

<鬼の法楽>

 慈恵大師 良源が、廬山寺(ろざんじ)で修行中に邪魔してきた鬼を、豆を撒いて退散させたという故事に由来して、
 2月3日の節分会で「鬼の法楽」が行われ、護摩供を邪魔しにきた鬼を追儺師が邪気払いの法弓で追い払い、悪疫退散を祈願される

<首途八幡宮>

 寿永年間(1182年~1184年)
 源義経が、平家追い討ちの首途(かどで)にあたり、宇佐八幡宮の神霊を勧請したことに由来して「首途八幡宮(かどではちまんぐう)」と称されるようになったといわれる

<鉄輪(かなわ)>

 夫に裏切られた妻が、夫とその後妻を呪い殺そうと貴船神社で丑刻詣をして鬼となろうとした伝説
 謡曲「鉄輪(かなわ)」の由来にもなっている
 命婦稲荷神社の境内には、縁切りの「鉄輪の井戸」がある

<蟹満寺縁起>

 蟹満寺に残る由来
 「今昔物語集」巻十六第十六話などに記されている

 善良で慈悲深い夫婦と一人の娘が、食用に捕らえられていた蟹を逃がしてやり、娘を嫁に貰い受けにやっていた蛇を退治し、
恩返しを受ける

<桓武天皇の夢の故事>

 桓武天皇は、神が、天から田村(神足村の旧名)の池に降り立ち、宮中を襲おうとした悪霊を退散させた夢を見られた
 桓武天皇は、田村に、この神を祀る社を創建させ、太刀と絹を賜わせ
 「神足神社」と称したといわれる

<衣笠山(きぬがさやま)>

 第59代 宇多天皇が、真夏に雪景色が見たいと言い出し、山に白絹をかけて覆い、雪景色に見せたといわれる
 別名「きぬかけ山」と称される

<雲母坂(きららざか)>

 雲母坂(きららざか)は、修学院離宮横を通って、延暦寺の根本中堂に通じる最短コース
 「山州名跡志」によると、都から見ると、夕雲が覆って雲が生ずるように見えるため「雲母坂」と称されるようになったといわれる
 また、坂の土砂には、雲母が含まれる

<空也の鰐口と太鼓>

 「空也上人絵詞伝」によると、松尾明神が人に化現して現れ、空也上人に、お布施として鰐口と太鼓を与え、「末世の衆生利益のために、この太鼓を叩いて念仏を勧めなさい。念仏を唱えていれば影で守護をする」と神託して消えたという

<釘抜地蔵(石像寺)>

 前世の罪で手の病気に苦しむ商人の夢に地蔵菩薩が現れ、手に刺さっていた二本の怨みの釘を抜いて救ったことから「釘抜地蔵(くぎぬきじぞう)」と称されて、苦しみを抜くという信仰が生まれた

<蜘蛛塚>

 源頼光の熱病の原因となり、源頼光が退治した土蜘蛛が棲んでいたといわれる塚

<蹴上の石仏>

 牛若丸が無礼を受けて斬り捨てた9人の武将たちの菩提を弔うために、
蹴上付近の東海道沿いに安置したといわれる9体の石仏

<こぬか薬師>

 鎌倉時代
 1230年(皇紀1890)寛喜2年の冬
 異常気象による極寒の中で、疫病が大流行していたある夜、
 斉藤山城守の夢に本尊の薬師如来が現れ、
 「一切の病苦の衆生よ、わが前に来れば諸病ことごとく除いてやる。早く来ぬか来ぬか」と告げられた
 斉藤山城守は、感激して世間にこのお告げを広め、遠国からも参拝者が訪れ疫病が早々に治まったといわれる
 その後、薬師院を「不来采薬師」「こぬか薬師」と称されるようになった

<駒止地蔵菩薩像(こまどめじぞうぼさつぞう)(蓮光寺)>

 もと六条河原の刑場に祀られていたが、鴨川の氾濫で埋もれてしまっていたのを、
 1158年(皇紀1818)保元3年
 平清盛が乗っていた馬が止まり急に動かなくなったため、そこを掘ってみると地蔵菩薩が出てきたといわれる
 盗賊に襲われた篤信者を護り、身代わりになって首を切られたといわれ、「首切り地蔵」とも称される

<逆蓮華(さかれんげ)(安養寺)>

 安養寺の本尊
 台座の蓮華の8枚の花弁が下向きに開いている珍しいもの
 蓮台を作り、仏像を載せたところ3度も蓮台が壊れてしまい、作るたびに壊れてしま ったといわれ、ある日の夜、悩んでいた仏師の夢の中に年老いた僧が現れ、「逆蓮華の台座を作るとよい」と夢告があったといわれる

<猿ヶ辻の猿(京都御所)>

 京都御所の北東の角の凹んだところ「猿が辻」に置かれた鬼門除けの猿

<酒呑童子>

 丹波国の大江山または丹波国と山城国の国境の大枝山(老ノ坂峠)に住んでいたとされる日本三大悪妖怪の鬼
 源頼光と、その四天王らによって、神便鬼毒酒を飲まされ退治されたといわれる

<鍾馗さん>

 江戸時代に、三条の薬屋が家を新築したときに、大屋根に鬼瓦を乗せたところ、向かいの家の奥さんが病に伏せてしまい、鬼に強い鍾馗さんを家の玄関の小屋根に飾るとその病気が治ったといわれる

<証拠の阿弥陀如来(勝林院)>

 1186年(皇紀1846)文治2年
 大原談義、大原問答
 天台宗の顕真法師(後の61世天台座主)が、浄土宗の宗祖 円光大師 法然上人を大原の里の勝林院に招いて、専修念仏について問答を行い宗論を戦わせた
 この時、法然上人の教えが正しいと、阿弥陀如来の手から光明が放たれ、念仏の衆生済度(しゅじょうさいど)の証拠を示したといわれ「証拠の阿弥陀」と称されるようになった

<将軍塚>

 平安時代末期以降
 天下に異変があるときは、必ず将軍塚が鳴動して前兆を表すといわれる
 「源平盛衰記」によると、源頼朝が挙兵する前年、1179年(皇紀1839)治承3年7月には、3度、将軍塚が鳴動し、その後、大地震が起こったといわれる

<知らぬ顔の半兵衛(一文橋)>

 日本で最初の有料橋である一文橋の橋守は厳しく、一文のお金を惜しんで川を泳いで渡ろうとする者は捕らえられていた
 しかし、橋守の半兵衛は、貧しい人が渡るのを黙って見過ごしていたといわれる

<菅原道真の祟り>

 菅原道真が、藤原時平の策略で無実の罪で大宰府に流され、無念のまま死去してから京では天変地異が続き「菅原道真の祟り」と噂されるようになった

<すすき塚(了徳寺)>

 鎌倉時代
 1252年(皇紀1912)建長2年
 親鸞聖人が、愛宕山の月輪寺から帰る途中の鳴滝で説法をしたところ、
感銘を受けた里人たちから「他に何ももてなすものがないのですが」と、塩炊きの大根を馳走され、親鸞聖人は、すすきの穂を束にして筆の代わりにし「帰命盡十方無碍光如来」の十字名号(じゅうじのみょうごう)を書き残されたといわれる

<宗旦狐(そうたんぎつね)>

江戸時代初期に相国寺の境内に住んでいた1匹の白狐
 相国寺において、千利休の孫 千宗旦(せんのそうたん)に化けてお点前を披露した古狐
千利休の孫 千宗旦が、相国寺において茶会を開いたときに、その狐が千宗旦に化けて、見事なお点前を見せたといわれる
宗旦狐(そうたんぎつね)

<蘇民将来と祇園祭のちまき>

 八坂神社の祭事である祇園祭では、「蘇民将来之子孫也」と護符の付いた「ちまき」が配られ厄除けに祀られる

<太閤の石仏>

太閤 豊臣秀吉が、気に入った北白川の里に立っていた立派な石仏
太閤 豊臣秀吉が、北白川の里を訪れたとき、街道沿いに立っていた立派な石仏が気に入り、聚楽第まで持ち帰り祀り、豊臣秀吉は、毎日、拝んで、とても機嫌が良かった
 しばらくして毎晩、地響きのようなうめき声が聞こえるようになる
調べてみると、運んできた石仏が、北白川の地に戻りたく泣いていることが分かり、元の場所に安置されたといわれる

<蛸薬師如来(永福寺)>

 鎌倉時代中期
 建長年間(1249年~1256年)
 日に日に病弱になっていく母親を永福寺に迎えて看病していた僧 善光は、
母親から「子供の頃から好物だった蛸を食べれば治るかもしれない。」と言われ、
僧侶の身で、生ものの蛸を買いに行くことを躊躇し悩んでしまう
 しかし、善光は、母親を想い、箱をかかえて市場に出かけ、蛸を買って帰える
 僧侶が生魚を買ったのを見かけた町の人たちが、門前で、善光に箱の中を見せるようにと責める
 善光は、一心に薬師如来に祈り「この蛸は、病気の母親に食べさすために買ったものです」と箱を開ける
 すると箱の中の蛸が、8本の足を変じて、八軸の経巻となって霊光を四方に照らした
 この光景に、人々は皆な合掌し、「南無薬師如来」と称えると、経巻は蛸に戻り、門前にあった御池に入り、瑠璃光を放って、善光の母親を照らすと、病気はたちまち回復したといわれる
 それ以来、病気平癒を祈願すれば、身体の病だけでなく心の病もたちまち回復したといわれ、
「蛸薬師如来」と称されるようになったといわれる

<忠盛燈籠>

 八坂神社の拝殿の東方にある燈篭
 雨の夜、燈籠に灯を入れようとしていた僧侶を怪物に見まちがい驚く白河法皇を、
お伴していた平忠盛が沈着冷静に見定め対処したという故事

<丹波湖開拓伝説>

 亀岡盆地は、太古は湖であったといわれ、湖が開拓された伝承が各地に残っている

<撞かずの鐘(報恩寺)>

 かつて、報恩寺の鐘(重要文化財)は、朝夕に撞かれ、西陣一帯の織屋では、この鐘の音で仕事が終始していた
 ある織屋の仲の悪い丁稚と織女が、夕刻の鐘の数を、織女は9つ、丁稚は8つと言い争った
 本来は、百八煩悩を除滅するために、108つの1/12の9つが撞かれていたが、
丁稚は、寺男に頼み、その日だけ8つのみ鐘をついてもらった
 織女は、負けた悲しさと悔しさで、鐘楼で首をつり自殺をしてしまった
 それ以来、この鐘をつくと不吉なことが起こるため、供養をし、朝夕に撞くのをやめ、
除夜と大法要の時にのみに撞くことになったといわれる

<撞かずの鐘(つかずのかね)(成相寺)(宮津市指定文化財)>

 1609年(皇紀2269)慶長14年
 山主 賢長が、新しい鐘を鋳造するため浄財の寄進を募ったとき、寄付を断った富豪の家の嫁と子供が、鐘の鋳造の日、大勢の見物人の中で、誤って子供を坩堝(るつぼ)に落としてしまった
 その鐘を撞くと、子供の泣き声や母親を呼ぶ悲しい声が聞こえてきた
 それ以来、この鐘を撞くことがされなくなった

<土佐坊昌俊の堀川夜討ち(冠者殿社)>

 土佐坊昌俊(とさのぼうしょうしゅん)は、源頼朝の命を受け、源頼朝と仲違いした弟の源義経の討っ手となる

 土佐坊昌俊は、熊野詣を装って上洛し、源義経には「紀州熊野権現への参詣の途中に立ち寄ったもので、君に二心はない」と誓紙七枚を起請したといわれる
 三枚は八幡宮、一枚は熊野権現、三枚は誓いのしるしとして灰にして飲み下したという
 しかし、土佐坊昌俊は、夜の暗闇の中で源義経の堀川邸を取り囲む
 土佐坊昌俊は、奮闘するが、源義経に捕らえられ、首をはねられる前に、
「この後、忠義立てのために偽りの誓いをする者の罪を救わん」と願をかけたといわれる
 このことから、冠者殿社には「起請返し」「誓文払い」の信仰が生まれたといわれる

<鳴虎図(なきとらず)(報恩寺)>

 1501年(皇紀2161)文亀元年に、後柏原天皇より、報恩寺に下賜された虎の掛け軸
 中国 東北の山岳地帯で、虎が谷川の水を飲んでおり、背後には松が描かれ、2羽のカワサギがとまっている
 毛の一本一本が描かれ、立体的に浮き出ており、右からと左から見るとで姿が違って見える
 豊臣秀吉が気に入り、聚楽第に持ち帰っり床に掛けて観賞していたが、毎夜、吠えて眠れずに、返されたものといわれる
 中国の画人 四明陶いつ(しめいとういつ)の署名があり、宋か明の時代に描かれたものといわれる
 寅年の正月三が日にのみ特別公開されている

<涙で描いた鼠>

 江戸時代に狩野永納が編纂した「本朝画史(1693年刊)」によると、幼い頃に近くの宝福寺に入った雪舟は、絵ばかり好んでお経を読もうとしないので、和尚さんに叱られ仏堂の柱に縛られてしまう
 雪舟は、床に落ちた涙を足の親指につけ、床に鼠を描いたところ、和尚さんは、その見事な絵に感心して、雪舟が絵を描くことを許したといわれる

<業平の塩竈跡>

 十輪寺に隠棲していた平安時代の歌人 在原業平が、塩を焼いて風情を楽しまれていた塩竈の跡

<仁和寺のある法師>

 仁和寺の老僧が「一生に一度は石清水八幡宮へ行きたい」と思っていたところ、念願が叶って石清水八幡宮へ行った
 しかし、ふもとにある高良社や極楽寺などを参拝して満足してしまい、今いる寺社が石清水八幡宮だと思い込んで山に登らなかったという
 「どんな小さなことにも案内する人が必要である」という徒然草第52段にある逸話

<鵺退治の伝説>

 大将軍神社の境内にあたる「鵺の森(ぬえのもり)」で、源頼政が妖怪・怪鳥「鵺(ぬえ)」を2度退治したという伝説

<橋姫>

 橋姫は、橋にまつわる伝承に登場する女性・鬼女・女神
 嵯峨天皇の時代、ある公卿の娘が深い妬みにとらわれ、貴船神社に7日間籠ってお告げを受けて、宇治川に21日間浸かって鬼になり、妬んでいた女と、その縁者、相手の男の親類、最後には、身分の上下・男女構わず、次々と殺していった
 その女性は「橋姫」として、宇治川のそばの橋姫神社に祀られている

<橋姫伝説>

 橋姫の夫が海辺で笛を吹いていると、美しい龍神が現れて、婿にとられてしまう
 3年後、ようやく夫の所在が分かるが、もはや夫は戻ることができず、二人は泣く泣く別れることになる
 「古今和歌集」には、夫が詠んだ歌が選定されている
 「さむしろに 衣かたしき今宵もや 我をまつらん 宇治の橋姫」

<光源氏写し顔(清凉寺)>

 清凉寺の阿弥陀三尊坐像(国宝)の中尊の阿弥陀如来
 棲霞寺の本尊だったものといわれ、顔相がひきしまり、肩広く胸が厚いたくましい形状
 嵯峨天皇の皇子 源融が亡くなる前に、自分の顔に似せて作らせたといわれる

<飛梅伝説>

 平安時代初期
 大宰府に左遷された菅原道真を慕って、菅原道真の御殿の梅が一夜にして大宰府まで飛んでいったといわれる

<へそ石>

 聖徳太子が建立した六角堂の本堂の前にある、京都の中心に位置するといわれる礎石
へそ石は、聖徳太子が建立した六角堂の本堂の前にある、京都の中心に位置するといわれる礎石
所在地:六角堂(京都市中京区六角通東洞院西入堂之前町)
 奈良時代 587年(皇紀1247)用明天皇2年頃
 聖徳太子が、六角形の堂を建立し、如意輪観音菩薩を安置したのが由来といわれる寺院
別称:要石(かなめいし)
 平安時代
 「元亨釈書」によると、平安京造営にあたり、六角堂が、条坊制による東西の小路の中央に位置して邪魔になっていたところ、勅使が南北のどちらかに移動してもらうことを祈願すると、黒雲が現れて、六角堂が自ら北方へ5丈(約15m)動いたと記されている
 その跡に残った礎石が「へそ石」と称される

<弁慶石>

 三条通麩屋町の歩道脇にある石
 武蔵坊弁慶が気に入っていた石で、最期を遂げた奥州高館へ移されるが、元の「三条京極に往かん」と唸って騒ぎ出したといわれる
 「男の子が触ると力持ちになれる」「火魔・病魔からのがれられる」といわれている

<疱瘡石(西院春日神社)>

 平安時代初期
 淳和天皇 皇女 崇子内親王が、疱瘡(ほうそう)にかかり、西院春日神社でご祈願をされると、神前の石が崇子内親王の身代りとして疱瘡になり、崇子内親王の疱瘡が完治されたといわれ病気平癒、無病息災の守護神として崇められている
 都に疫病が流行ると、この石の表面が必ずぬれるといわれる

<松尾大社の亀>

 奈良時代中期
 714年(皇紀1374)和銅7年
 古記によると
 磐座(いわくら)があった松尾山の大杉谷に、
首に3つ、背中には7つの星があり、尾が緑毛・金色毛に覆われた長さ8寸の亀が現れたので神主が、朝廷に参上したところ、メデタイこととして元号を「霊亀」に改元され、亀は、再び大杉谷に放たれたといわれる

 729年(皇紀1389)天平元年
 松尾山の大杉谷に、背中に「天王貴平知百年」と記された亀が出たので、
秦忌寸都理が、朝廷に献上すると、奉幣使を立てて神のめぐみを感謝されたといわれる

<見返り阿弥陀>

 永観堂(えいかんどう)(左京区)の木造阿弥陀如来立像(重要文化財)
 1082年(皇紀1742)永保2年
 中興の祖の永観律師(ようかんりっし)が、念仏の行道(ぎょうどう)をしていたところに阿弥陀如来が須弥壇から下りてきて永観律師と一緒に行道を始め
 驚いた永観律師が足を止めると、阿弥陀如来が振り向いて、「永観遅し」と永観に声をかけて導いたといわれる
 阿弥陀如来は、それ以来首の向きが元に戻らず、そのままの姿で安置されているといわれ、顔を左(向かって右)に向けた珍しい姿の像
 像高77センチ

<身代りお釈迦さま(戒光寺)>

 戒光寺の本尊 丈六釈迦如来像(重要文化財)>
 鎌倉時代の仏師 運慶(うんけい)と湛慶親子の合作
 首の辺りに、血が流れたように見える跡がある
 第108代 後水尾天皇が東宮の時代、即位争いに巻き込まれ、ある夜、暗殺者に寝首を斬られてしまう
 が、血を流していたのは、身代りになられた丈六釈迦如来像だったといわれる
 その後、無事に即位された後水尾天皇は、事あるごとに丈六釈迦如来の身代りに守られ、
歴代天皇の中でも稀な長命を全うされたといわれる
 「身代りお釈迦様」と称され、「悪しき事の身代り」「首から上の病気、のどの病気を治してくださる」と崇められる

<身代り聖観音(穴太寺)>

 平安時代中期
 962年(皇紀1622)応和2年
 丹波に住んでいた宇治宮成が、京都の仏師 感世に聖観音菩薩像の制作を依頼した
 聖観音菩薩像の完成後に、檀家が感世にお礼を渡したが、宇治宮成はそのお礼を奪おうと待ち伏せして感世に向かって矢を射った
 後日、宇治宮成は、自分の射った矢は聖観音菩薩像に突き刺さり、感世は生きていることを知り、自分の行いを悔い仏門に入りその聖観音菩薩像を本尊として祀ったといわれる
 この故事により、穴太寺は、身代り観音の寺として信仰を得てきた

<身代わり観世音菩薩(成相寺)>

 真応上人が、成相山で修験の修行をしていた冬のある日、大雪が続き、食べ物がなくなり
餓死寸前となったところに一頭の傷ついた鹿が現れた
 真応上人は、命には代えられず、その鹿の肉を煮て食べた
 ところが、鹿の肉だと思ったのは、本尊 観世音菩薩の腿の木片であることに気付き、
本尊が身代わりになり飢えを助けてくれたという
 真応上人が、その木片を観世音菩薩の腿につけると像は元通りになったといわれる
 このことにより「成相寺」の寺名の由来とされている

<道真の登天石>

 水火天満宮の境内に置かれている霊石

<源頼光の鬼(酒呑童子)退治>

 大江山に残る3つの鬼退治の伝説の一つ
 日本の最強の妖怪(鬼)とされる「酒呑童子」が、先祖代々、比叡山に住んでいたが、
伝教大師 最澄に追い出され大江山にやってきたといわれ、源頼光たちが、鬼の仲間だといって近づき、毒酒をのませて自由を奪い皆殺しにしたといわれる

<迎鐘の伝説(六道珍皇寺)>

 迎鐘の音が、十万億土の冥土にまで響き渡り、お精霊さん(おしょうらいさん)が、この世に呼び寄せられるといわれる
   「古事談」によると、六道珍皇寺を開基した慶俊僧都が作らせた梵鐘
   慶俊僧都が、中国 唐へ行く時に、弟子に「この鐘を鐘楼の地中に三年間埋めておくように」と厳命した
   しかし、弟子が、一年半ばで掘り出して鐘を撞いてしまい、その音が、中国 唐の慶俊僧都にも聞こえたといわれる
   慶俊僧都は、「三年間地中に埋めておけば、六時になると自然に鐘が鳴るようになったのに」と、残念がったといわれる
   そして、中国 唐にまで音が響く鐘なら、冥土まで届くだろうと信仰されるようになったといわれる

<娘道成寺(妙満寺)>

 歌舞伎・能楽・長唄などの、紀州道成寺の霊話が取り入れられた題目

 修験者 安珍(あんちん)に恋をした庄司の娘 清姫(きよひめ)が、安珍に裏切られ、
日高川で蛇身となり、紀州 道成寺(どうじょうじ)の釣鐘に隠れいる安珍を見つけ、炎を吐き、鐘を真赤に焼き、安珍を黒焦にして死なせ、自らも日高川に身を投じたといわれる

<百夜通い伝説>

 絶世の美女といわれた小野小町に恋した深草少将が、小野小町のもとに100日通い続けたが望み叶わず失命した故事

<薬師如来の夢告(永福寺)>

 平安時代末期
 1181年(皇紀1841)養和元年
 二条室町の富豪 林秀が、延暦寺の根本中堂の薬師如来に帰依し、長年、延暦寺の月参りを行っていたが、ある日、薬師如来に「年老いてきて長年の月参りもできなくなるため、どうか薬師如来様を一体お与え下さい」と祈願したという
 その夜、夢枕に薬師如来が現れ、「昔、伝教大師 最澄が私の姿を石に彫り延暦寺に埋めたものを持ち帰るがよい」と夢告があったという
 翌朝、林秀が、薬師如来の示された所を掘ると、瑞光赫々とした立派な石像が見つかり、大喜びしたという
 林秀は、その薬師如来の石像を持ち帰り、六間四面の堂を建立して祀り「永福寺」と称したといわれる

<矢取地蔵>

 平安時代初期
 824年(皇紀1484)天長元年夏
 大干ばつの際、淳和天皇の勅命により神泉苑で行われた「雨乞い合戦」で、
東寺の弘法大師 空海に負けて面目をつぶされた西寺の守敏大師(しゅびんたいし)が、
羅城門の近くを通る空海を待ち伏せ、後ろから矢を放つ
 そこに一人の黒衣の僧が現れ、守敏大師の矢を右肩に受け、空海は難を逃れた
 黒衣の僧となり、空海を助けた矢取地蔵尊が、矢取地蔵寺に祀られている

<幽霊子育飴の伝説>

 古くから葬送の地であった鳥辺山の麓のあの世とこの世の境域といわれている六道の辻に残る伝説
 身ごもったまま亡くなった女性が、お墓の中で無事に産まれた子供のために飴を買って与えていたといわれる

<湯たく山茶くれん寺(浄土院)>

 桃山時代
 1587年(皇紀2247)天正15年
 豊臣秀吉が、北野天満宮で大茶会を催したとき、
名水があった浄土院にお茶を飲みに立ち寄ったとき、尼僧にお茶を出してもらえずお湯ばかりが出されたという

<世継地蔵(上徳寺)>

 江戸時代初期
 1657年(皇紀2317)明暦3年
 上徳寺の信者であった八幡の清水氏が子供を亡くし、世継の子に恵まれるよう祈願しお堂にこもり、7日目の夜、等身大の地蔵菩薩が現れて「我を石に刻み祈願しなさい」と告げられる
 清水氏は、その地蔵菩薩を石に刻んで祈願すると、世継ぎの子を授かったことに由来し、その地蔵菩薩が「世継地蔵」と称されるようになったといわれる

 享保年間(1716年~1735年)
 当時の住職が、「我は子がない者に子を授け、子孫相続し家運長久ならしめん」と夢告を受けたといわれる

 1852年(皇紀2512)嘉永5年
 孝明天皇の中山慶子親王は、世継地蔵を篤く信仰し、明治天皇を出産したといわれる

<六地蔵めぐり>

 「六地蔵縁起」(大善寺:1665年(皇紀2325)寛文5年)によると
 平安時代初期
 852年(皇紀1512)仁寿2年
 小野篁が一度は亡くなるが、冥土において生身の地蔵菩薩に出会い、教えに従って蘇生し、
木幡山(こばたやま)の一本の桜の大木から六体の地蔵菩薩像を刻み、木幡の里(現在の大善寺)に安置したといわれる

<六道の辻>

 鳥辺野の葬送の地にかけて、現世とあの世の境にあたるところ